音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

45位 モーターヘッド『ノー・スリープ・ティル・ハマースミス』(1981年)

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ローリングストーン誌が以前モーターヘッドについて記述した通り、もし彼らがヘヴィメタルを“本当に初めて表現した”存在だとすれば、アルバム『ノー・スリープ・ティル・ハマースミス』がレミー・キルミスター率いるバンドによっていちばん最初にその表現がなされた場になるだろう。英国の爆弾魔である彼らの歌は、オリジナルのスタジオ・バージョンではたいてい不快で乱暴な印象があるが、このライヴ・アルバム収録の1曲を除くすべての曲が録音された1981年の「Short, Sharp Pain in the Neck」ツアー(酔ってバカ騒ぎしている時に首を骨折した当時のドラマー、フィル「フィルシー・アニマルテイラー」にちなんだツアー名)では極端に速く激しい演奏がなされている。その結果、この作品はモーターヘッドの明確な意思表示となり、ベスト曲の最高のバージョンとバンドの能力がピークであることを象徴するラインアップのサウンドや激しさが収められている。メタリカが彼らのデモテープに『NO LIFE ‘TIL LEATHER』というタイトルをつけ、ビースティ・ボーイズがシングル『ノー・スリープ・ティル・ブルックリン』でバンドに賛辞を送ったのは驚くに値しない。このアルバムは未熟で情緒もないと非難されたにもかかわらず、モーターヘッドにとって最も商業的に成功した作品であり続けている。「もちろんピークに達した後は、下降する以外どこにも行く場所がない」と、キルミスターは自伝『ホワイト・ライン・フィーヴァー』でアルバムについて皮肉を言った。「でもあの頃の俺たちは自分たちがピークに達したことに気づいてなかった。俺たちは何も知らなかった」。by Brandon Geist

44位 U2『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』(1983年)

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真の危険を記録したライヴ録音。U2がデンヴァー郊外にあるレッド・ロックス円形野外劇場でライヴを実施した1983年6月5日は、あまりにもひどい悪天候でチケットは完売したはずなのに観客は半分も訪れず、オープニング・アクトのバンド(アラームとディヴァイナルズ)も安全上の懸念を理由に出演を取り止めた。だがそんなことはU2、特にボノを思い止まらせる理由にはならなかった。2004年にギタリストのジ・エッジがローリングストーン誌に明かした話によると、ボノは『ジ・エレクトリック・カンパニー』の曲の演奏中に送電線にぶつかりそうになりながら照明設備によじ登り白旗を振って、「彼を震え上がらせた」という。しかしこのライヴ・アルバムとライヴ・ビデオ、霧に包まれたなかで歌った曲『ブラディ・サンデー』のミュージック・ビデオからは本当に稲妻が走った。アルバム『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』の収録曲のほとんどはボストンやドイツのライヴ音源であるにもかかわらず、レッド・ロックスの映像は、巨大なスターダムにのし上がる前のまだ若く粗削りのU2としての最後の瞬間を印象づけるものである。「あれは俺たちにとって成果の指標になった」とアダム・クレイトンは述べた。「俺たちは今こう言うべきなんだろう。「よし、俺たちは自分自身が競争相手というレベルに到達した。つまりまた出発点に戻ったんだ」と」。by David Menconi

43位 ニール・ヤング&クレイジー・ホース『ウェルド~ライヴ・イン・ザ・フリー・ワールド』(1991年)

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1991年前半にクレイジー・ホースとともに活動していた頃のニール・ヤングは、ちょうどキャリアを再興している最中だった。ニュー・アルバム『傷だらけの栄光』がバンドの最高傑作として認められ、彼らは古い曲も新しい曲のどちらも驚くほどのエネルギーと情熱を込めて演奏していた。このライヴ・アルバム『ウェルド~ライヴ・イン・ザ・フリー・ワールド』は、最高の瞬間を2枚組のCDに収めている。『ライク・ア・ハリケーン』の14分にわたる演奏は今でもこの曲の最高のバージョンのひとつであり、『コルテス・ザ・キラー』や『パウダーフィンガー』、『ヘイ・ヘイ,マイ・マイ』などのライヴの定番曲はこれ以上ないほど生き生きと演奏された。クレイジー・ホースのライヴの絶頂期がいつであるか決めるのは難しいが、このアルバムはかなりの確率でそれに該当し得るだろう。もともとこの作品は、曲の始まりと終わりに音のハウリングが多い35分の長さの1曲のみが収録された『Arc』とセットで梱包されていた。「今ここにいる自分は45歳だ。このアルバムは自分の頭の中で今どんなことが起きているかという本質である」と、この長くてうるさい組曲を作ったヤングは述べた。「俺は大きなスピーカーを積んだジープを乗り回すような人たちのために『Arc』を作った。もしこの曲をかけながら道で誰かの横に車が止まった時、かなり自己主張になるだろう」。by Andy Greene

42位 フィッシュ『New Year’s Eve 1995 - Live at Madison Square Garden』(2005年)

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フィッシュがマディソン・スクエア・ガーデンで実施した1995年(から1996年にかけて)の年越しライヴは、おそらくほかのどのショーよりもこのジャム・バンドにとっての商業的な基準と芸術的な基準を作ったライヴだろう。長髪のオタク4人が出演するミュージカル劇の端にスタントが次々に登場する3つのセットを設置していたが、バンドの最も面白いトリックはいつも通り即興でなされた。例えば後に『That Dream Machine』などの曲を収録したトレイ・アナスタシオのセルフ・プロデュースによるサイド・プロジェクト『One Man’s Trash』に見られるような第二セットの終わりでの遅延ループのモチーフなどがそうだ。「まるでひとつの時代が終わろうとしているかのようだった」と、ヴァーモントの4人組のかなり騒々しい歴史を特集した著書を執筆したパーク・プーターボーに、1995年秋に実施したバンドの長期ツアーについてアナスタシオは話した。『New Year’s Eve 1995 - Live at Madison Square Garden』は伝統的な即席テープやファンによる何ヶ月もの議論(トレイはザ・フーのカヴァー『溺れるぼく』でグレイトフル・デッドの曲『ファイアー・オン・ザ・マウンテン』をからかっていた?)だけでなく、3枚組のCDやつい最近リリースされたRECORD STORE DAY限定の6枚組のLP盤が出るなど、再生可能な音源になり得ることを証明した。by Jesse Jarnow

41位 ピーター・フランプトン『フランプトン・カムズ・アライヴ!』(1976年)

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1976年の夏、見開きジャケットのついた2枚組ライヴ・アルバムの究極形態である『フランプトン・カムズ・アライヴ!』ほど話題になった作品はなかった。なお、A&Mレコードが2枚目のディスクを入れるべきだという奇抜な手段を取らなければ、ただの1枚のアルバムになるはずだった。ハンブル・パイのギタリストだったベテランのフランプトンがソロになったのは本当に喜ばしいことだった。『君を求めて』や『ショー・ミー・ザ・ウェイ』、特に『ライク・ウィ・ドゥ』(全部で14分間)などのシングルは本当にライヴ環境にいるかのようで、観客の雑音さえ感じられる。『フランプトン・カムズ・アライヴ!』は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックに塗り替えられるまでだが、音楽史上最も売れたアルバムという記録を一瞬で打ち立てた。「俺たちは『フランプトン・カムズ・アライヴ!』を出す1年前にスタジオ・バージョンの『ショー・ミー・ザ・ウェイ』をシングルとしてリリースしたが、まったくヒットしなかった」と、フランプトンはミュージックレーダー誌に語った。「この曲のライヴ・バージョンを出して、どんどん人気が出ていくのを見た時はかなり妙な感覚だった。だってまったく同じ曲だからね。何が変わったんだろう?AORが当時のラジオで主流だったが、彼らは狂ったようにアルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ!』を流し続けた。AORのラジオ局(つまりほとんどの局)にチャンネルを合わせれば、確実にこのアルバムの収録曲全部を聴くことになった」。by David Menconi

Translation by Shizuka De Luca

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