ジャニス・ジョプリン、『チープ・スリル』に関する10の知られざる真実

Photo by Malcolm Lubliner/Michael Ochs Archives/Getty Images


8. バンドが当初選んだ『セックス・ドープ・アンド・チープ・スリルズ』というアルバム・タイトルは、レーベルによって却下された。

レコード会社側で問題となったのは、オリジナルのジャケット・デザインだけではなかった。コロンビア・レコードは、バンドが選んだ『セックス・ドープ・アンド・チープ・スリルズ』というアルバム・タイトルにも難色を示した。悪名高き麻薬撲滅キャンペーン映画『リーファー・マッドネス 麻薬中毒者の狂気』から引用したフレーズは、アンドリュースのお気に入りだった。「我々の音楽やムーヴメントへの過剰反応に対する解毒剤になるかと思ったんだ」と彼はアンバーンに語っている。「“おふざけなんだから大目に見てよ!”って感じさ」 ママス&パパスやザ・ローリング・ストーンズも、アルバム・ジャケットにトイレの便座を表示することを禁じられた時代、タイトルに“セックス”や“ドープ(麻薬)”といった言葉を使うのは限度を超えているとみなされた。最終的にタイトルは短くされ、シンプルに『チープ・スリル』となった。

9. アルバム完成前に50万枚が予約販売されており、リリースを急ぐため36時間ぶっ通しでセッションとミックス作業を行った。

1968年3月にニューヨークで行った2週間に渡るセッションでは、わずか3曲しか仕上げられなかった。翌4月、サイモンとバンドはアルバムを完成させるため、コロンビア・レコードのロサンゼルスのスタジオへ場所を移した。約1か月間レコーディングを続けたが、完成には程遠かった。原因のひとつはサイモンの完璧主義にあり、バンドののんびりとしたスタイルと真っ向からぶつかったのだ。「絶対音感を持ったプリンストン大出身の気取り屋が、“ギターのチューニングが狂っている”とか“ヴォーカルの音程がずれている”とか言って、何百万回もやり直しさせるんだ」と、アシスタント・プロデューサーを務めたエリオット・メイザーは振り返る。やがて6月に、サイモンがザ・バンドのセカンド・アルバムをプロデュースするためにこちらを離れねばならなくなった時、関係者一同はホッとしたことだろう。その後はメイザーが、完成までのプロデュース作業を引き継いだ。彼の仕事の大部分は、できるだけ早くプロジェクトを仕上げたいと苛立つコロンビア・レコードの幹部を上手くかわすことだった。メイザーが依然として、「B面をどうやってまとめようか」という段階にいた頃、彼はクライヴ・デイヴィスからの電話を受けた。メイザーは、まだこの世に存在しないアルバムが予約販売だけで50万枚を売り上げ、ゴールド・アルバムが保証されていることを知らされた。「レコードを仕上げようとがんばっているバンドに、絶対に伝えたくないことだった」とメイザーは、アンバーンに語った。



プレッシャーが増す中、ジョプリンとサム・アンドリュースはエンジニアと共に、ファイナル・バージョンをミックスするために36時間ぶっ続けで作業した。「1日半、睡眠も食事もほとんど取らなかった」とアンドリュースは振り返る。しかし、過酷なセッションと長時間の作業は、それだけの価値があった。「我々は何かを成し遂げたという実感を得たし、売れる可能性があるんじゃないかと思った」

10. アルバムのリリースからわずか1週間後、ジョプリンはビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーを去ると宣言した。

ジョプリンがビッグ・ブラザーから離脱するという予兆は、バンドが『チープ・スリル』のレコーディングのためにスタジオ入りする前からあった。ジョプリン以外のバンドのメンバーは事実上お飾りだという、アルバート・グロスマン率いるマネジメント・チームの明確な方針は、プレスキットにも表れていた。コンサート宣伝時の表記も突然、“ジャニス・ジョプリンとビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー”となり、グロスマンはバンドに隠れて策略をめぐらした。「アルバートはジャニスにまず、ビッグ・ブラザーを排除する、と言ったんだ」と、ミュージシャンでジョプリンのアルバム『パール』にも関わったニック・グラヴィナイティスは言う。「彼はジャニスにレコード契約を持ちかけ、“25万ドル稼がせてやる。ただしお前だけだ。契約にビッグ・ブラザーは含まない。よく考えてみろ”と言ったんだ」

1968年に入り、ジョプリンに対するバンド外からのプレッシャーも高まっていた。「我々がひとたび暖かく居心地の良いサンフランシスコを離れると、“ビッグ・ブラザーは音楽的能力が低い”と評論家たちに批判されるようになった」とドラマーのデイヴ・ゲッツはエコールスに明かした。「最終的に、それがバンドを分裂させるきっかけとなった」という。ザ・ロサンゼルス・フリー・プレス紙は、「ジョプリンのソウルは、パートナーとしてホールディング・カンパニーには手に負えない」と主張した。さらにローリングストーン誌は、バンドのボストンでのギグを「乱雑で音楽全体の恥さらし」と評した。ジョプリン自身はそれら全てを笑い飛ばそうとした。インタヴューではバンドを“お粗末なミュージシャン”と率直に認めつつ、彼らは“家族のようなもの”と述べていた。しかし、彼女のヒーローであるエタ・ジェイムズやオーティス・レディングが得意としたホーン中心のソウル・サウンドを目指すには、彼女は独自の道を歩まねばならないことを承知していた。『チープ・スリル』がリリースされてから数週間後の1968年9月中旬、グロスマンはメディアに対し、ジョプリンがビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーから“友好的に”離脱したことを発表した。1968年12月1日、彼らはサンフランシスコで最後のステージに立った。「とっても悲しい瞬間だったわ」と1970年、ジョプリンはローリングストーン誌のデイヴィッド・ダルトンに語っている。「世界で一番好きな人たちだったし、彼らもそれを理解してくれていた。でもミュージシャンとしての自分を真剣に考えた時、私は新しい道を行かなきゃならなかったの」

Translated by Smokva Tokyo

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