長渕剛が真摯に語る、「血」をテーマに歌をつくりたかった理由

長渕剛

引退の完全否定から始まるこのインタビュー。

長渕剛は自身をどんなアーティストだと思っているのか。常に生ききる姿勢を音楽に投影してきた理由は一体何なのか。大きな転換期となった西村公朝との出逢いとそこで学んだもの。長渕剛のメロディはどうして日本人の琴線にあんなにも響くのか。そして、怒りも喜びも悲しみも愛も死生観も詰め込まれた、長渕剛が持つあらゆるベクトルに振り切れた楽曲の集合体であるニューアルバム『BLOOD』について。当面の目標として掲げている二度目の桜島のコンサート。それに付随して本当に命懸けだった富士山麓コンサート秘話も語ってくれている。約15000字に及ぶロングインタビューになっています。自分の人生と照らし合わせながら、じっくりとご覧頂きたい。

―昨年9月、2025年に桜島でラストライブを開催するというニュースが飛び込んできて驚きました。どんな想いで決断されたんでしょうか?

長渕剛:あれは皆さん誤解している節がありまして。引退じゃないんですよ。桜島や富士山麓で行ったような命懸けの野外公演はラストライブ、それぐらいの意気込みがないと出来ないという話なので。で、最初に申し上げておきますと、出鼻を挫くようで申し訳ないんですけど、桜島はまだ未定となっています。

―なるほど。

長渕剛:その前にアジアツアーもやる予定なんですけど、それもアジア各地での公演を決めるのが予想以上に難儀でしてね、想定より時間がかかっていて。先日、初めてアジアの興行師、プロモーターとお会いして、おそらくそこでやるだろうということで、契約を結べれば、来年の3月~5月ぐらいにもしかしたらアジアでライブすることになるのかなと。その時期に日本の大ホールも考えてます。韓国は今年の後半から行く準備をしているんですけど、新人のようにプロモーションを重ねてやりたいという想いがあるんですよね。なので、そのひとつひとつが積み上がり、目標を達成していかないと、桜島まで行けないので、2025年にやるか。もう1年繰り越しての開催になるかは、現時点ではまだ断言できないんです。

―ということは、あくまで「今後のヴィジョン」として話したことがメディアに決定事項のように書かれてしまい、長渕さんの意としない形で広まってしまったんですね。

長渕剛:先走って「引退」とか書かれちゃって(笑)。

―引退じゃないと分かって安心しました! では、ここからは長渕剛の人間像や音楽像に迫っていきたいのですが、ご自身では長渕剛をどんなアーティストだと思っていますか?

長渕剛:僕は青年の頃から常に「どうやったら独りを感じずに仲間の中に溶け込むことができるか、仲間に自分の歌を共有することができるか」ということばっかり考えていたんですよ。それはただ単純にキャパを大きくするということじゃなくて、ひとりでもいいから、自分の想いと一致できる相手を探していた。要するに歌を介在した共通のテーマ性を探していく生き方。それは今も昔もずっと変わらなくて、確実にそれが必要とされるものじゃなきゃいけない。という風に思っていますね。

―それを1978年の本格デビューから46年間、もしかしたらそれより前からずっと追及してきたと。

長渕剛:それを続けていくうえで、今は年齢的に体力的な問題とかいろいろありますけど、そこは抗うしかないんですよ。つまり「オーディエンスがまだ自分の名前を呼ぶだろう」或いは「呼ばせてやろう」と思う以上は、オーディエンスの期待に真っ向から向き合って絶対に裏切らない、徹底的なパフォーマンスをやるぞと。そういう暗黙の中でのオーディエンスと自分が掲げてきた、その時代その時代においてのマックス感です。マックスの明日感、希望感。そういったものをおそらく共通言語として生きていっている実感はすごくあります。だから、まず僕が生ききらなきゃいけない。生ききるということは、死は当然近くなってきますから。そこで何をするか?という想いは今強くあります。

―長渕さんは常に生ききる姿を作品やステージで体現し、それに影響を受けたファンたちもまたどう生ききるか考えるようになる。そして、さらに生ききる長渕剛の姿を求めるようになっていきます。これに常に応え続けながら自らを更新していかなければならない音楽人生は苦しくもありますよね?

長渕剛:その通りだね。とんでもない道だな、茨の道だなとその時代その時代に思ってきました。だけど、それが自分の生きる道なんだと思うし、生き方なんだと思うんです。かと言って、このファンと共に作り上げていった歌の世界やパフォーマンスの世界というものが「自分の中から消滅したらどうなるんだ?」と考えたときに、解放されるか。或いは無力になるか。きっと無機質になると思うんです。だから、今話してくれたような、生ききるサイクルに身を置き続ける。それはすごく真剣に日常を切り刻んでいかなきゃいけないし、食に関しても切り詰めた生活をしていきますから、ラクじゃないんです。ラクじゃないんだけど、ステージに出てファンが期待する希望的なものと、自分がソレに応える為に毎日を切り刻んで生きてきたものとが、ある到達点で合致する瞬間がある。「うん、だよな!」っていう瞬間。そこで報われるからやり続けるんです。

―その一瞬の為のすべてであると。

長渕剛:簡単に言うと、泣いている奴がそこにいたとして。自分が歌をその人の為に放つことによって笑顔になる。そこに自分は生き甲斐を感じているから。それをおしくらまんじゅうのようにオーディエンスと自分が確認する時間は、1年に1回ぐらいしかない。日常を365日生きている中でのたった1日。その1日が色濃くあり、364日会えなかったことの代償がその1日で膨れ上がるんであれば、そのことを実感するのであれば、自分はやり続けなきゃいけない。という使命感みたいなものに駆られます。「その為だったら何でもやるぞ!見てろ!」っていう想いはあります。その為なら日常が苦しかろうが耐えていくのです。

―その姿勢や意思は常々感じています。

長渕剛:家族を持とうが、仲間がいようが、人はみんなひとりぼっち感を感じています。この閉塞的な時代においてはなおさら。そのひとりぼっち感から解放されて、得体の知れない不安、死への不安からも解放される瞬間がその1日に凝縮される。「生きるも死ぬも何も関係ない。ただおまえとやれるだけやるぞ!」っていう。そこにすべてを懸けていく生き方。刹那的ではあるんだけれども、そうやって46年やってきたということです。

Rolling Stone Japan 編集部

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