長渕剛が真摯に語る、「血」をテーマに歌をつくりたかった理由

―その中で長渕さんは誰もやらないことを幾つも実現してきましたよね。例えば、桜島や富士山麓でのオールナイトコンサート。楽曲で言えば「Captain of the Ship」「家族」「富士の国」など規格外の歌も発表してきました。

長渕剛:人生って生まれてから死ぬまで自分探しの旅だと思うんですね。例えば、僕のファンのみんなは、僕が立つところへやってきて歌を共有して自分探しをしている。何もないところには探すアテもないので、いわゆる叩き台として自分の歌があるんだろうなと。ならば、その叩き台のクオリティを自分は高めていかなければならない。その為にはとにかく苦しんで歌をつくり続けていく。或いは、その歌をステージから命懸けで届けていく。死ぬ想いをしていないと、生への執着というものは生まれませんから。それが今挙げてくれたライブや楽曲になっているんだろうし、その歌のリアリティをみんながそれぞれの人生の中で感じ取って、自分探しのきっかけにしてくれているんじゃないかと思います。

―たしかに、自分もその感覚で長渕さんの歌を聴いていますね。

長渕剛:死を実感しないと生の実感も生まれないように、不幸せがないと幸せに憧れることもできない。最終的に紡いだ言葉が稚拙で童謡的な歌になっていたとしても、それは普遍というテーマに置き換えただけの話なので。その歌詞の原本は物凄く荒々しくて、血生臭いものだったりするんです。それをカンナで削って削って作品として世の中に投げている。そのメロディと声と歌詞の世界を皆さんが自分の人生と投影させながら感じ取ってくれているんじゃないかと思いますね。そういう意味での本物の歌。それは自分がずっと追求していることなので、そりゃ日常生活はキツいですよ。そこを目指していくということは、ただの流行歌を作ることとはまた違うんで。

―そうした人生を突き動かしていく歌を志したきっかけ。おそらく幾つもあったと思うんですが、大きな転換期となった出来事があったら教えて頂きたいです。

長渕剛:僕は青年時代を聖人君子では生きてこれなかったんだけど、30歳を過ぎた頃、自分の歌に対して非常に厳しく批判的なもうひとりの自分がいたんですよ。「そんな歌を世の中に放っていいのか、おまえ」と自分が言うんです。「あそこはちょっとラクしたんじゃないの?」とかね(笑)。要するに自分を許せなかったんですよ。

―音楽への姿勢を戒める自分がいたと。

長渕剛:そういった想いのときに京都・愛宕念仏寺の西村公朝先生とお会いしてですね。僕は10年間、先生が亡くなるまでご奉公させてもらったんです。先生は東京芸大の名誉教授であられて、若い頃から彫刻家で戦争にも行っていて。その戦争から帰ってきて、自分の役割は仏像を彫り続けることと、破壊された戦後の仏像の修復作業に勤しむことであると。その命題を戦地で受けて、三十三間堂の2000体の仏像修復に取り掛かるんです。そんな先生と縁があって、とある歌が出来た瞬間にギブソンのJ-45を持ってですね、京都まで新幹線に乗って愛宕念仏寺まで行ったんです。で、本堂にある千手観音へ向かって歌うんですよ。「本物か? 本物か?」って言いながら。そのまま2時間ぐらいずーっと歌ってたら、数珠を切るような音が聞こえてきましてね。先生が来たなと。そして一拍二拍と間を置いて、ぽつんと「間違っておらんよ」って言ってくれたんです。

―一言で肯定してくれたんですね。

長渕剛:それが「人間」という歌が生まれるきっかけだったんですけど、その先生の言葉が嬉しくて。初めて歌に対して疑心暗鬼になっていた自分に「大丈夫だよ」と言ってくれた人が先生しかいなかったんで、その喜びを留めておきたくて、先生に茶目っ気でサングラスをかけてもらったりしながら、愛宕念仏寺の本堂で「人間」のプロモーションビデオを撮ったんです。そんな感じで先生は常に僕の歌を肯定してくれた人なんですよ。「1番と2番ひっくり返したほうがええんやないか」とアドバイスもくれたりして、いろんなことを教えてくれた。絵を描くことも教えてくれた。粘土細工も教えてくれた。あと、東京に月に2回ぐらい来られるんですけど、麹町にお泊りになられるんです。そこへ僕が車で迎えに行って、自分の家に招待させてもらって、コーヒーを淹れてホットケーキも焼いてあげるんですよ。それが月2回の僕のご奉公で、先生も楽しみにしてくれていて、そんな関係が10年続きました。

―本当に素晴らしい縁だったんですね。

長渕剛:その先生が「ええか。ワシはこんな老骨に鞭を打ちながら、今から彫刻を彫り続ける。1年に1体つくるんや。10年かかる」と言い出して。僕が「何を彫られるんですか?」と聞いたら「お釈迦様の弟子たちを彫るんだ。出来上がったら持ってくるよ」と。で、1年に1回、その出来上がったものを持ってきて、それを真っ先に僕に抱かせてくれるんですよ。それぞれの十人十様の業を積み上げた表情。それを文献から先生が想像して粗彫りで作り上げていくんですけど、僕は圧倒されてしまって。80代半ばまで本当に彫り続けて、10体彫ったら見事に「さいなら!」と天に逝きましたよ。僕は最後お見送りすることが出来たんだけど、その時期に口々に言っていたのが、茶目っ気のある先生だから「あんたも88まで歌え」と。「あんた、ようハーモニカを放り投げるやろ。あれがそのうち入れ歯になる。入れ歯を金にすればええがな。金歯投げたら、みんな喜んで取るでぇ!」みたいなことも言われましたし(笑)。

―冗談も粋ですね(笑)。

長渕剛:日本の勲章を持っていらっしゃる武士なんで、すごい方なんだけど、普通に弟を叱咤するような、イジるような感覚でお話になるんで、本当に僕はぞっこんでしたね。心の支えだった。その先生に教わったことというのは、祈りの儀。そして、いわゆるエンターテインメントの世界におけるパフォーマンス、表現とはどういうことなのか。そういうことも先生とお話しているうちに自然と「こうあるべきだ」と固まっていきました。そこからは何も変わってないですね。

―先生から学んだことが今の音楽にも反映され続けていると。

長渕剛:先生は晩年、仏様を線画で描かれていて。最初は緻密な仏様を描いていたんですけど、だんだん一本の線になっていって、おむすびのような仏様を最後に書くんですよ。にかっと笑っている可愛らしい仏様。それが先生の求めた普遍の仏の像であると。すべての人たちに分かりやすい仏様。それを見たときに、自分も「そういうことなんだな。歌も最終的に子供が分かるようなものが普遍に繋がっていくんだろうな」となんとなくインスパイアされたところはあります。そこの勝負はめちゃくちゃ難しいし、今でもまだまだ完成しませんけど、今回のアルバム『BLOOD』の中にもそういったものの影響は過分にしてあると思います。

Rolling Stone Japan 編集部

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