長渕剛が真摯に語る、「血」をテーマに歌をつくりたかった理由

―その普遍の話ともリンクするかもしれませんが、3、40年の時を経て愛され続けている「乾杯」「とんぼ」といった代表曲たちが、近年はアジア各地でもヒットしています。この状況にはどんな感慨を持たれていますか?

長渕剛:まず端的に嬉しいですよね。もうひとつは、歌は世の中に放った時点でもう自分のものではない。それは強く感じました。国内だけでなく国外まで飛び出してしまう歌ということなら、なおさら自分のもとからは離れている。ましてや中国では中国人の誰かが作った歌ということになっていたり(笑)。あと、台湾では韓国の方が台湾にやってきて「私の歌だ」と言って歌うらしいんですよ。

―それは凄い。というか、ヤバくないですか(笑)。

長渕剛:先日、興行師からそんな話を聞いて「あー、そうですか! 失礼な話ですね!」って言いましたよ(笑)。

―歌は世に放ったらみんなのもの。これは理解できるんですけど、丸パクりはまた別の話ですよね(笑)。

長渕剛:そこに関しては「俺の歌だよ。おまえの歌じゃないよね?」ぐらいは言いたいなと思う(笑)。でも、僕がもし韓国や中国に行ったら逆に「ウチの国歌みたいな歌を日本人が歌いに来た」と言われちゃうかもしれない。

―長渕さんがカバーしてると思われるかもしれない。

長渕剛:「いや、俺の、俺の」って言わないと(笑)。でも、浸透しているのはその人の歌だからコレが厄介なんですよ。だから、もう収まりがつかないんで、やっぱり歌は世に放ったらもうみんなのものであると。そんな風に大前提として思っていますね。最終的にその歌があと何年聴かれ続けるのか分かりませんが、木彫彫刻の場合は400年を想定するそうなんです。僕の歌が400年生きるとは思わないけど、自分が放った歌が歌い継がれているのであれば、もはや「誰が書いた歌なのか」とかはもう関係ない。不意に口ずさんでしまう「夕焼け小焼け」ぐらいのクラスになれたら僕はもう本望。それは昔から思ってますね。

―長渕さんってセンセーショナルなアクションだったり、人生の乗った歌詞だったり、その生き様だったり、いろんな面で評価されていると思うのですが、個人的にはメロディメイカーとしての才能が凄いと昔から感じていまして。例えば「とんぼ」のイントロ部分、歌詞がなくても誰もが「WOW WOW」と口ずさんでしまうメロディなんてそれこそ「夕焼け小焼け」の次元だと思うんですよね。

長渕剛:自分ではあんまりメロディメイカーだとは思っていないんですけど、自分が腑に落ちるメロディはああいうメロディなんですよね。いわゆるハイセンスなデニッシュ何分のなんとかみたいな、記号で書いたような譜面の世界の音楽は一切学んできてこなかったんで、循環コードの中で出来る音楽でしかないんです。もっと変わったことが出来ないのかとたまに思うんですけど、結局そこに落ち着くんですよね。それが何かと聞かれてもなかなか上手く答えられないんだけど、自然と次いで出てくるメロディがあるんですよ。その感覚は大事にしてますね。

―長渕さんの音楽はフォークであり、ブルースであり、ロックであり、いろんなジャンルを取り入れていると思うんですけど、そのメロディも含めてジャパニーズソウルなんだと個人的には感じています。

長渕剛:ソウルミュージックも好きで聴いてきてますからね。だから、変換の仕方が和製なんだと思います。料理で言えば和食にアレンジしているから、なかなかそこと本場のブルースやソウルとは直結しないのかもしれないけど。

―でも、日本人の魂に訴えかけてくる音楽ではありますよね。仮に長渕さんの曲だと知らなくても反応してしまう要素に溢れている。

長渕剛:昔はメロディの感覚的な分析を知り合いとよくやっていたんですけど、インドの人が亡くなったときに館で流されるシタールの音階と、沖縄の昔の伝統文化で海に亡くなった人を流すときの島唄的な音階って全く共通するんですよ。あと、アイヌ音楽にも通ずるものがあったりして。それって何なんだろうと考えてみると、やっぱり死生観が含まれているんですよね。そこに流れるメロディは大体共通しています。これは民謡やアメリカのカントリーもそうなんですけど、節回しが違うだけで意外と共通しているものがあって、そこのルーツにはやっぱり死生観や民族性、土着性といったものがある。そこにブルースも生まれたりしてね。で、たぶん、僕の音楽の源流にもそういったものが流れていて、ブルースや民族音楽に精通するものがあるのかもしれない。

―長渕さんはまさしくその死生観をテーマに歌い続けているミュージシャンですからね。

長渕剛:死って怖いじゃないですか。何故かって未経験のものだから。それでいて絶対に経験するものだから。若い頃はそこを隠して語らないんだけど、いろんな体験をして死を直視したりしてしまうと、どこかでその恐怖を受け止めたくないんでしょうね。なので、大義を考えたりする。何の為に死ぬのか。そこから人間はいろんな理屈を考える。そうすると「自分の為に生き、自分の為に死ぬ」なんていうことはとんでもないよって思うようになる。もしかしたら人間はそうかもしれないんですけどね。一匹の人間が自分の為に生きて死んでいくだけなのかもしれない。でも、それを考えたら「ずっと独りぼっちかよ」って恐ろしくなる。だから「君の為に死ぬんだ」「国家の為に死ぬんだ」と先人たちはいろんな理論構築をして大義というものをつくったんだと思うんですよね。

―死や孤独への恐怖を和らげる為に大義が必要だったと。

長渕剛:お猿さんや虫に大義があるかどうかは分かりませんが、でも防衛本能による攻撃の構えを取るじゃないですか。自分が死のうとも群れを守る為に。だから、生き物として生まれた以上はたぶん誰しも大義が必要なんだと思うとですね、死から一瞬解放される為に人は何かに懸命になる。一生懸命という言葉は、一生、命を懸けるということですから。なんてことを考えてみたりしてね(笑)。

―いや、すべて腑に落ちる話ですよ。

長渕剛:そんなことを研究しながら、実体験として人を好きになったり、憎まれたり憎んだりしているうちに、そういう死生観が根本にある歌たちがひとつずつ僕の生きた痕跡としてあって。序盤の話に戻るようですけど、それって血まみれでゴツゴツしてて聴くに値しないものだったりするんですよね、原本は。その原本を削ったり、彫ったり、カットアウトしたりしながら、普遍というテーマに置き換えていくわけです。それは非常に苦しい作業なんですよ。「ここは削りたくないな。ここはサラザラさせておきたいよ。いや、でも切り落とそう!」みたいな。その作業をずーっとやっています。

―仏像の彫刻と通ずる作業ですね。

長渕剛:そうなんですよ。だから、ゴツゴツとした歌は意外と書きやすいんです。そのまま吐き出せばいいから。エゴイストならそれで良いんですよ、好きな人が聴けばいいんだから。だけど、自分の場合は仲間を求めて「仲間と共感したい」という想いがいちばん先にあるもんですから。やっぱり苦しい作業はしなくちゃいけない。自分のゴツゴツした人生をそのまま「感じ方は一緒だろ」と押し付けても「俺の人生とは違うから」で終わっちゃいますから。時としてそういう歌を世に出すときもあるけど、それだと普遍的な歌には決してならないんですよね。そういう意味では、今回のアルバムは普遍というテーマからすると、またひとつ完成形に近づけたような気はします。

Rolling Stone Japan 編集部

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