レッド・ツェッペリンが誕生するまでの物語

1968年9月7日デンマーク、ニュー・ヤードバーズのジミー・ペイジとロバート・プラント (Photo by Jorgen Angel/Redferns)


モストは3分間のポップソングの熱心な信者で、ペイジとは衝突していた。ペイジは、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、クリーム、ジミ・ヘンドリックスらがアルバムで実現していたものに注目し、自分のバンドもその方向でやってみたいと思っていた。ペイジは特に、彼が1966年5月にプロデュースしたジェフ・ベックの楽曲『ベックス・ボレロ』のレコーディング・セッションにインスパイアされていた。「ベースのジョン・ポール・ジョーンズ、キース・ムーン、ピアノのニッキー・ホプキンス、そしてギターにジェフと僕、というメンバーだった」とペイジは、2012年に行われたデヴィッド・フリッキーとのインタヴューで語っている。「この時のセッションは、自然に導かれたように本当に素晴らしかった。キース(ムーン)は当時、ザ・フーと上手くいっていなかった。彼は、“このセッション・メンバーでバンドを組むべきだ”と言っていた」という。彼らがバンド名についてのアイディアを出し合っている時、ドラマーのムーンが冗談交じりに「レッド・ツェッペリンはどうだろう」と言ったのをペイジは覚えている。「鉛でできた気球みたいに落ちていくだけだからさ」と言うムーンのアイディアを、ペイジは悪くないと思った。「その名前が頭から離れなかった」

才能、名声、豊富な経験に加え、ペイジには秘密兵器があった。体重136キロの元プロレスラーで、モストのビジネス・パートナーとしてヤードバーズが最後を迎えるまでの日々のマネジメントを引き継いだピーター・グラントは、ヤードバーズが崩壊した時、今後彼が業界で成功するための鍵は、黒髪を長く伸ばした痩せっぽちの若きギタリストが握っていると確信していた。それから12年間に渡るグラントのペイジに対する献身は絶対的なものだった。ペイジが新しいバンドを結成しようと思い始めた時、必要なレコーディング契約を獲得し、米国を征服するためにはグラントが頼りになる、とペイジは信じていた。彼らはロックの次世代を担う偉大なフロンティアとして、その両方を実現した。

最初の仕事は、シンガーを見つけることだった。スモール・フェイセズのスティーヴ・マリオットが最有力候補だったが、彼のマネジャーはマリオットにこれ以上つきまとうならペイジに身体的危害を加えると脅し、ペイジ側からの誘いを妨げた。また別のミッキー・モスト門下で、ジェイウォーカーズの元シンガーだったテリー・リードも候補に上がっていたが、断られた。その後リードは、ミッドランズ出身で当時ホッブズトゥウィードルというバンドを率いていた有望な新人ロバート・プラントを紹介した。ペイジとグラントは、彼の可能性を自分の目で確かめるため北へ向かった。



「ロバートのバンドは、バーミンガム郊外の教育大学で12人ほどの観客を前にプレイしていた」とペイジは、ツェッペリンのオーラル・ヒストリー『トランプルド・アンダーフット』の中で回想している。「その晩のロバートはファンタスティックで、彼が僕にくれたデモを聴いても、彼の歌声は間違いなく並外れて、とても特徴的だということがわかった」

あとは、ライオンのように力強くシャウトする男が、ペイジの目指す方向へ一緒に向かってくれるかどうかだった。ペイジはテムズ川に浮かぶ彼のボートハウスへプラントを招き、音楽について語ったりレコードを聴きながら午後を過ごした。その時たまたまかかったジョーン・バエズの『ゴナ・リーヴ・ユー』を聴いた彼らは、この曲をアレンジしたらカッコよくなるという話で盛り上がった。同曲のカヴァー・バージョンは、1969年にリリースされたツェッペリンのデビュー・アルバムに収められた。プラントは明らかにバンドへの参加に乗り気だったが、彼が期待以上の付加価値をもたらすことを、その時のペイジには知る由もなかった。

Translated by Smokva Tokyo

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