『ファイト・クラブ』公開から20年、本作が今なお色褪せない理由

公開から20年を経てあらゆる状況が変わった現在、『ファイト・クラブ』に極端なまでの二元性が生まれているのはそのためだ。ニヒリズムを極めてスタイリッシュに描き、ほくそ笑みながらタブーやルールを犯すようなフィンチャーのアプローチは極めてスリリングだ(筆者は冒頭でアドレナリンが噴出する作品を他に知らない)。同作はエドワード・ノートンが醸し出すノームコアのバイブを最大限に活かしつつも、彼のエッジーな部分も描いてみせた(彼ほど見事にスクリーン上で自分自身を痛めつけた俳優はいないだろう)。ノートンとブラッド・ピットという2大スターの共演は今でも新鮮であり、ピットが演じたダーデンの破滅的キャラクターの魅力は健在だ。彼らの奇抜なファッションに今も憧れている人も少なくないだろう。何度観ても衝撃や新鮮さが薄れないのは、そういった部分にこそ理由がある。たくましくセクシーで、カリスマ性に満ちたあのキャラクターは文字通り想像の産物だったわけだが、すべてを投げ打って美しい何かを破壊するその姿が呼び起こす快感は、今でも少しも色あせていない。

今『ファイト・クラブ』を観れば、『MR. ROBOT/ミスター・ロボット』や無数のB級作品、そしてウィットを交えずに男性の怒りを描き出そうとした凡作(この記事はそれが筆者だけの意見でないことを示している)がその影響下にあることは明らかだ。同作はフィンチャーが監督として屈指の才能の持ち主であること、そしてピットが出演した今年度の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と『アド・アストラ』がその延長線上にあることを示している。ノートンが『マザーレス・ブルックリン』の取材で同作に触れるたびに、世間はそれが彼のキャリアにおけるハイライトであることを再認識する。『ファイト・クラブ』の輝きは今も健在だ。

その一方で、映画の公開後にひとつどころか2つの「偉大な戦争」が勃発したという事実、そして2008年以降世界中で首をもたげている憂鬱感を考慮すれば、ビルが崩壊するシーン(BGMがピクシーズであろうとなかろうと)が2019年という時代にフィットしているとは言い難い。抑圧された男性たちが非合法の暴力を有害な信仰へと転化させ、インターネットと権力者たち(特にある人物)が猛威を振るう今の社会には、皮肉にも『ファイト・クラブ』が風刺したものが明確に現れてしまっている。

フィンチャーたちを責めるのはお門違いだ。彼らはカルチャーに反応した結果、思いがけずその核心をついたに過ぎない。しかし、その物語が「成熟」についてであるという自身の認識を大衆が共有してくれるだろうというフィンチャーの考えは、やはり希望的観測に過ぎなかった。『ファイト・クラブ』は、スーパーヒーローたちに独占されてしまう前のアメリカ映画業界が生んだマイルストーンだ。しかしなお、そこには我々が生きる現在、そして待ち受けているであろう未来が映し出されている。「俺たちはみんな、山のように積もった堆積物の一部に過ぎない」というステートメントは、未だかつてなく真実味を帯びている。かつて否定されたその言葉に、今なら多くの人々が共感するに違いない。

Translated by Masaaki Yoshida

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