J-POPの歴史「1980年と1981年、劇的だった80年代の幕開け」

70年代の不遇比べというんですかね。誰が1番恵まれなかったかコンテストをやるとすれば、どんな人たちが出てくるでしょうね。RCは当然入ってきます。達郎さんもかなり上位にランクインするでしょう。でも1、2を争うのは、大瀧詠一さんではないでしょうか。はっぴいえんどが解散したのが1973年で、そのあと自分のレーベル・ナイアガラというのを作りました。なかなかナイアガラをレコード会社が引き受けてくれなかったんですね。なんでかっていうと、サイダーのコマーシャルというのがありまして、大瀧さんはそれをレコードにしたかった。はっぴいえんどは、ああいうバンドメンバーの完成形、それぞれの個性がぶつかり合うバンドの緊張感のある作品でしたし、松本隆さんという作詞家の世界が色濃かった。大瀧さんは、もっとカラっとした遊びのようなアルバムを自分の世界で作りたかった。CMソングというのはその中に入っていたんですね。そういう音楽をやりたいと、いろいろなレコード会社に持っていったんだけど、唯一引き受けてくれたのが、フォークのレーベルだけはやめてくれと大瀧さんが言っていた、エレックレコードだった。しかしエレックがすぐに倒産してしまって、コロムビアレコードがナイアガラを引き受けるんです。だけど、3年間で12枚のアルバムを作るという、とんでもない契約に縛られてしまったんですね。大瀧さんはコロムビアに身売りするときに、レコーディングのコンソールを1番新しいものに変えるということで頭がいっぱいで、やろうと言ったものの3年間で12枚というのがものすごく過酷な縛りになってしまい、その間、ナイアガラ以外の仕事をできなかった。唯一CMソングをやりながら、それを経営の助けにしていた10年間だったんですね。コロムビアとの契約があけて、さあ自由の身になったというときに作ったのが『ロングバケーション』だった。そういう始まり方でありました。

81年というのは、松本隆さんが作詞した曲がチャートを一色に塗りつぶすという年でありました。次の曲は81年1月に出たシングルです。南佳孝さん「スローなブギにしてくれ」。

南佳孝 / スローなブギにしてくれ


冒頭の「want you」というのは、佳孝さんのデモテープに入っていたんだよって松本さんがおっしゃっていました。片岡義男さん原作の「スローなブギにしてくれ」映画化の主題歌でありました。松本隆さんははっぴいえんどを解散した後にプロデューサーになるんですね。その最初の仕事が南佳孝さんの「摩天楼のヒロイン」だった。発売日が73年のはっぴいえんどの解散コンサートと同じ日だったんですね。はっぴいえんどの解散コンサートは、それぞれのメンバーが次になにをするかというお披露目のライブでもあったんです。大瀧さんのところには伊藤銀次さんのココナツ・バンクとか、シュガーベイブも登場している。松本隆さんのところでは佳孝さんが「摩天楼のヒロイン」を歌うというステージの構成になっていたんですね。松本さんは『摩天楼のヒロイン』のプロデュースもして、さらに作詞もした。このアルバムは今でもシティ・ミュージックの走りということで半ば伝説化――なかなかこの言葉は使いたくないんですが、いろいろな形で語られるようになっているわけで、歴史的な1枚になりましたが、当時はまったく売れなかったんですね。70年代当時は、そういうのが多いんですよ。『摩天楼のヒロイン』はレコード会社がショーボート・レーベルというところで、はっぴいえんどの事務所・風都市がトリオ・レコードと組んで新しい音楽を作ろうよと始めたレーベルなんです。当然のごとくお金がなかったり、レーベルもあまりうまくいかなくて。佳孝さんも『摩天楼のヒロイン』の後はしばらくレコードを出さない。で、76年に『忘れられた夏』というアルバムでCBSソニーから再デビューしたんですね。『忘れられた夏』は松本さんが関わってなくて、79年に出した4thアルバム『SPEAK LOW』で再開するんです。それぞれ70年代に1回いろんなことをやったんだけど思うような結果が出なくて、挫折したり低迷したり試行錯誤していて、それぞれの道を探しながら70年代後半を生きてきて再び出会えるようになった。それが80年の幕開けという時代ですね。この「スローなブギにしてくれ」はチャートは1位にならず、6位だった。これは映画と主題歌のイメージが全然違ったからで。ディレクターの高久(光雄)さんが言っていましたけど、映画が公開されたと同時にレコードの売れ行きが止まったそうで。映画は新宿の飲み屋さんの話ですからね。

松本隆さんは80年の12月に近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」を出しています。これが80年の年末のシングルチャートの1位、そして81年第1週の1位。つまり、80年の終わりから81年は松本隆旋風が吹き荒れた中で始まった。そんな松本隆旋風を決定づけたのがこの曲ですね。81年2月発売、寺尾聰さん「ルビーの指輪」。

寺尾聰 / ルビーの指輪


作詞・松本隆、作曲・寺尾聰。寺尾聰さんはザ・サベージ、グループ・サウンズのメンバーでした。松本さんはサベージをテレビで見て格好いいなと思っていて、寺尾さんがソロになって再び出会うことになった。そこで、はっぴいえんどをやろうと思ったと自分でも話していますね。最初の一行「くもり硝子の向うは風の街」って部分が、はっぴいえんどですね。ここだけかもしれませんが。これが年間チャートの1位ですよ。70年代の終わりに始まった、ザ・ベストテンのランキング12週間連続1位。3ヶ月間1位だったんです。今では想像できないロングヒットですね。大昔の話をしてしまうと、1950年代にジェームズ・ディーン主演の映画「エデンの東」の主題歌が、「ユア・ヒットパレード」という映画音楽がたくさん流れているラジオのランキング番組で2年間1位だったんですね。2年間が終わった後に、ずっと1位だったという永久保存みたいな形で特別待遇になった覚えがありますね。日本のポップスで12週間連続1位というのはなかなか思い当たりませんね。チャートは1年間で52週あるんですけど、1981年の年間チャートのうち、松本隆さんの書いた曲が28週間1位だった。1年の半分以上、松本隆さんの書いた曲が占めていたという年だったんですね。この28週間1位を占めた曲の中の4曲目が、80年にデビューした松田聖子さんの「白いパラソル」ですね。この話は来週になるんですけど。松本隆さんは「スニーカーぶる~す」と「ルビーの指輪」ですよ。「スニーカーぶるーす」はスニーカーですから、少年性です。「ルビーの指輪」はトレンチコートですから、大人のハードボイルドですね。ちゃんと年代別に歌を書き分けていた。これも作詞家としての度量、力量、スケールを感じさせる。

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