J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」

80年代になっても健在だった「ライブの拓郎」「アルバムの陽水」

小田和正さん、清水仁さん、松尾一彦さん、大間ジローさん、4人のバンドの音ですね。81年に武道館10日間コンサートがありました。そのあと、鈴木康博さんが抜けて、こういうメンバーになったんですね。活動再開を決めるまでの間について、小田さんがインタビューで言っていたのは「僕はダンボだった」というセリフ。ダンボって、ディズニーの映画がありましたね。耳の大きいゾウさん・ダンボは自分が窓から飛べるのか飛べないのかってずっと悩んでいる時間があったわけですけど、小田さんは、この4人のメンバーで空を飛べるんだろうかとずっと考えていた。そして84年4月に出た『君が、嘘を、ついた』で活動を再開したんですね。

84年6月にアルバム『The Best Year of My Life』というのが出ました。我が人生、最良の年というタイトルですね。自分の最も素晴らしい年なんだというタイトルのアルバム、翌年85年の4月から再開のツアーが始まりました。初日、覚えてますね。千葉県文化会館。まだ桜が咲いていたな。開演1時間くらい前に会場にいったら、もうお客さんがあふれていて、オフコース4人になってどんなステージをやるんだろうって不安の入り混じった緊張感というのがとても初々しかった。懐かしい思い出です。

井上陽水 / いっそセレナーデ


84年の12月に出た『9.5カラット』、セルフカバーアルバムですね。アルバムチャートは1位、そして陽水さんにとっては『氷の世界』以来2作目のミリオンセラーアルバムでした。70年代にもミリオンセラーを出して、80年代になってもそれだけの実績を残した。セルフカバーアルバムが1位になった前例というのがありました。拓郎さんの『ぷらいべえと』なんですよ。70年代、拓郎・陽水の時代と言われましたが、この2人は80年代になっても健在でありますね。ライブの拓郎、アルバムの陽水。この年のレコード大賞アルバム大賞がこの『9.5カラット』なんですね。カバーアルバムが大賞をとったのはこれが初めてです。シングルチャートのほうでは、84年11月に中森明菜さん「飾りじゃないのよ涙は」が1位になっている。

84年には安全地帯の「恋の予感」も出ました。安全地帯はもともと陽水さんのバックを担当していたバンドなわけで、陽水さんが詞も書いたりしていました。安全地帯は85年6月に出た玉置浩二さんが詞曲を書いている「悲しみにさよなら」が大ヒットして、年間チャートの9位になったんですね。この年の年間チャートおもしろいんです。1位のチェッカーズ「ジュリアに傷心」、2位が中森明菜さん「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」、3位が小林明子さんの「恋におちて -Fall in love-」、4位C-C-B「Romanticが止まらない」、5位もチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」、6位中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」、7位も明菜さん「SAND BEIGE -砂漠へ-」、そして8位もチェッカーズ「俺たちのロカビリーナイト」、9位が安全地帯「悲しみにさよなら」で、10位が松田聖子さんの「天使のウィンク」なんです。ニューミュージク、ポップス、ロック系のチャートなんですね。先週、83年のチャートに演歌がたくさんあったという話をしましたけど、激変していく80年代だったんですね。

85年にはもうひとつ劇的なシーンがありました。尾崎豊さんが大阪球場でライブをやったんです。尾崎さんの曲をお聴きいただきます。85年1月に発売になった「卒業」。

尾崎豊 / 卒業


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