セックス・ピストルズ「最後のライブ」から振り返る、パンクという夢の終わり

「最後のライブ」に至るまでの背景

1977年10月、1stアルバム『勝手にしやがれ』を全英チャート1位に送り込み、米ワーナーとディストリビューション契約を結んだ彼らの次のターゲットはアメリカだった。ワーナーの提案でアルバム・プロモーションのためのツアーを企画したものの、マルコムはあえてニューヨークやロス・アンジェルスといった音楽産業の中心地である大都市を避け、アメリカ南部を中心とした小さなヴェニューを回るツアーを組んだ。マルコムは決まりきったロック・バンドの成功パターンを踏襲したくなかった。流行の先端を行くスノッブな北部の大都市ではなく、あえて保守的で頑迷な南部に、秩序の紊乱者であるピストルズを放り込むことで起きる摩擦と軋轢を狙ったのである。より具体的に言えば、行く先々でピストルズのメンバーと現地の客がトラブルを起こし暴動・ケンカ沙汰にでもなってマスコミの話題になってくれれば、という皮算用があった。悪名は無名に勝る。それがマルコムのやり方だった。

ツアーは77年末から始まる予定だったが、逮捕歴のあるメンバーのビザが下りず延期され、結局78年1月5日、アトランタから始まった。そこからメンフィス、サンアントニオ、ダラスなどを回り、最後にサンフランシスコに辿り着く予定だった。いざツアーが始まってみると、ただでさえバラバラだったメンバーの統制はますますとれなくなっていった。スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは酒と女に浸りっぱなし、重度のジャンキーだったシド・ヴィシャスは旅先でドラッグを調達することしか頭になかったし、行く先々で無用なトラブルを起こしてもいた。ジョニーはツアーの間中、ドン・レッツが作ったレゲエのミックステープを聞いていたが、他メンバーはそれに一切の関心を示さなかった。一方スティーヴやポールは十年一日のごときストゥージズやニューヨーク・ドールズのテープばかり飽きもせず聞いていて、ジョニーを呆れさせていた。そしてジョ二ーは書きかけの新曲「レリジョン」の歌詞をスティーヴやポールに見せたが、まったく無反応だったという。「レリジョン」は後にPILの1stアルバムに収録された。パンクの次に来るものを見据えていたジョ二ーと、旧態依然としたロックンロールにしがみつく他メンバーの乖離は、既に明らかだった。

マルコムはバンドに対する統制力と支配力を高めるため、メンバー同士の対立を煽り、内部分裂を狙っていた。古今の権力者たちが使う常套手段である。具体的には自分と対立関係にあったジョニー・ロットンを追い出してシドをフロントマンに仕立てようとしていた、という説が有力だ。もっともスティーヴは後に「ジョニー抜きのピストルズなんてありえないし、考えたこともない」と語っていたが、メンバー同士の険悪な雰囲気、特にジョニーとスティーヴ、ポール、そしてマルコムの深い溝は、もはや埋めようもないところまで来ていた。そしてもともとピストルズに加入してからベースを始めたシドのプレイは不安定で、そこにドラッグの影響や、ステージ上でマルコムの求めるワイルドで破滅的なロック・スター・イメージ通りに振る舞おうとしたこともあり、ライブはしばしば収拾不可能な混乱に陥ったりもしていた。観客のウケも悪く、演奏は生気を欠いた。

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