80年代のUK音楽シーン最先端を目撃した、日本人フォトジャーナリストの知られざる物語

ブリット・ファンクとON-Uに対する印象

―ZIGZAG EAST No.2「大迫力で動き始めたブリティッシュ・ファンク」特集には、LINX、ライト・オブ・ザ・ワールド、フリーズのインタビューが掲載されていて、撮影はすべてヤマモトさんが担当されています。当時はファンクを演奏する若いバンドが多く出てきて、ハイテンション「Hi-Tension」やフリーズ「Southern Freeez」がヒットチャートにも上がっていました。しかし、私がリサーチした限り、当時の日本にはほとんど正確な情報がなかったようです。だからこそ、この特集のクオリティに驚かされました。このムーブメントや特集について覚えていること、今になって思うことがあれば教えてください。

ヤマモト:40年ぶりに記事を読みました。写真とインタビューは私のものですが、記事の半分は東京で書いていたのではと思います。80年代始めのブリティッシュ・ファンクですが、今から思うに、パンクの怒りと政治的なメッセージに付いていけなかった、あるいはそれを卒業した少し年上の世代やミドルクラスの若者が、ニューロマンティクスのダンス音楽に盛り上がっていく、つなぎ目のムーブメントではなかったか、と勝手に分析してみました。私個人としては、そのあとにエイドリアン・シャーウッドと知り合って、レゲエや、レゲエに感化されたミュージシャンとの関わりが多くなったので、メインストリームの音楽シーンから離れていったと記憶しています。



―同特集でのリンクスやライト・オブ・ザ・ワールドのインタビューで、彼らはジャマイカからの移民2世でありながら、自分たちのルーツであるレゲエを「敢えてやらない」ことにポリシーがあるような発言をしています。ON-U周辺のジャマイカ系アーティストも、ジャマイカやレゲエにこだわらない自由な発想で音楽を作ってきたように思います。彼らのそういったスタンスについて、当時どのように感じていましたか?

ヤマモト:ON-Uでレゲエをやっていたのは、ほとんどみなジャマイカ人です。イギリスに住んでいたミュージシャンもいましたが、生まれはジャマイカで子供の時にイギリスに来た人が多かったと思います。ON-Uはエイドリアンを中心にしたいろいろなミュージシャンの集団だったので、そのミックスが結果として「自由な発想」の音楽になったのではないかと思います。


Photo by Kishi Yamamoto

―ヤマモトさんは1980年に、エイドリアン・シャーウッドと共にOn-U Soundを立ち上げたという記述をどこかで見かけました。フォトジャーナリストのお仕事がOn-Uに関わるようになるきっかけだったそうですが、エイドリアンとの出会いについて教えてください。また、On-Uはレーベルとしてどういった点がユニークだったと思いますか?

ヤマモト:私がOn-Uに関わるようになったのは、ニューエイジ・ステッパーズのデビュー・アルバムとシングルが出たあとだったので、創始者ではないです。知り合ったのはZIGZAG EASTで取材したのがきっかけです。

上記の続きになりますが、ON-Uが特別だったのは、白人のプロデューサーでダブ/レゲエを追求し、実験的な新しい音を作ったことだと思います。音楽に共通点を持つ仲間が集まる従来のバンドやグループと違って、スタジオ・ミュージシャンの組み合わせも実験的でした。音楽のテクニカルな要素にやたらこだわるミュージシャンをよく「muso」(ミューゾ)とからかって呼びましたが、エイドリアンはその正反対で、ルールを無視する範囲まで突き進み、ノイズやディストーション、ヴォイス・サンプルなどもミックスに使っていました。80年代当初でそういった音楽を作っていた人はあまりいなかったと思います。デジタル録音のパイオニアであったAMSのサンプラーをよく使いましたが、当時のサンプラーはチューニングの調整ができず、オリジナルよりも高い音で再生するとスピードも上がり、低音は遅くなるという難点がありました。しかし、当時のサンプラーやサンプリング・シンセサイザーの音は、いまのデジタルサンプルよりも音が重厚というか、RAWだった気がします。テクニカルな理由はよくわかりませんが、特にレゲエのベースなどをアナログのレコード録音で聞くと、同じであるはずのデジタル・ヴァージョンよりもずっと厚みのある音に聞こえるのに通じるものがあるかと想像します。

―ヤマモトさんはその後、ON-U関連をはじめとしたジャケット写真撮影/デザインも行っています。アートワーク制作にも携わるようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか? 写真の撮影やデザインについて、特に記憶に残っているエピソードがあれば聞かせてください。

ヤマモト:ONーUに関わるようになって、写真は毎日のように撮っていたので、アートワークもその延長線だったと思います。ジャマイカからミュージシャンが来ると、義務のように写真を撮っていました。ほとんどが自宅に来た時に撮っていたので、プロップもなく、プレーンな壁をバックにしたポートレート写真になってしまい、それも使い道はありますが、もうすこしおもしろい場所で撮影できたらよかったかと今になって思います。その点では、ノア・ハウス・オブ・ドレッド『Heart』のジャケットに使った公園の子供達の写真や、アシャンティ・ロイ『Level Vibes』の夕方の写真は気に入っています。



―ポストパンクが盛んだった当時のイギリスで、音楽の仕事に携わる以上、階級や人種、ジェンダー、社会状況と向き合うことは不可避だったかと思います。また当時はDIYだったり政治的なスタンスだったり、何らかのポリシーを大切にしているアーティストが多かったと聞いています。ヤマモトさんは当時のシーンからどんな影響を受けたと思いますか?

ヤマモト:ON-Uのアーティストたちは、移民コミュニティとのつながりが深かったので、左系統の人間が多かったです。少なくとも私の周りでは反保守党(サッチャー政権)の意見がほとんどだったと思います。しかし私個人は、正直言って、当時は確固とした政治的なスタンスは持っていなかったような気がします。もちろん私も移民ですから体制派ではなかったですが。








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ヤマモトと娘のデニス・シャーウッド、1986年の写真

―その後、1998年からプロデューサー・コーディネーターとしてTV番組の制作に携わられているそうですが、転機を迎えたきっかけを教えてください。NHKで社会問題から歴史に関することまで様々なプログラムを手がけていますが、これらの活動にフォトジャーナリスト時代に経験したことが影響を与えていると思いますか?

ヤマモト:ON-Uを離れた時に音楽業界からも離れて、それまで忙しくてできなかったことをやろうと思っていました。ビジネス経営とかで模索している時に、友達経由でBBCの歴史番組の翻訳を頼まれたのがきっかけで、それまでの経験とは関係のないキャリアに転向しました。その時に編集室で会ったプロデューサーに起用され、BBCのドキュメンタリー数本にアシスタント・プロデューサーとして参加しました。その後、NHKのロンドン支局の仕事を経て、いろいろな番組のリサーチャー・コーディネーターになりました。この時期、ドキュメンタリー番組のリサーチと兼ねて、ロンドン大学の修士課程で政治を勉強しました。それで最初に持っていた政治への興味が復活したかと思います。ON-Uを離れてから、音楽は時々聞くだけなりましたが、子供ふたりとも音楽に関わった仕事をしているので全く知らないわけではありません。ただ昔の音楽を懐かしく聞くというタイプではないです。

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