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— XxteeDesignsXX@XxTeeTrend) July 11, 2023
「アトミックシティ」ラスベガス
「旧世界の知られざる遺物を精査する」をタグラインに掲げるウェブサイト「We Are the Mutants」は、アイルランドのコーク大学で戦後文学を研究するミランダ・コーコランのエッセイ「原子爆弾と美の女王: 女性のセクシュアリティと破壊の図像学」を、2019年1月に公開している。このエッセイのなかでコーコランは、原子爆弾がセックスシンボル化していった歴史を読み解く上で、ラスベガスという街が果たした大きな役割に注目している。
1951年から1992年までの間、アメリカ原子力委員会は、ネリス空軍砲爆撃場実験場(後のネバダ核実験場)で合計928個の核爆弾を爆発させた。そこから65マイル離れた砂漠の中心にラスベガスはあった。すでに快楽主義者とギャンブラーたちの集積地となっていたラスベガスは、核実験場に近接していたことで、ユニークな観光資源を手に入れた。1950年代初頭からキューバ危機をきっかけに限定的核実験禁止条約が結ばれるまでの間、観光客はデザート・インやビニオンズ・ホースシューといったホテルのバルコニーに詰めかけ、遠くの爆発が空を照らし、やがて巨大なキノコ雲に膨れ上がるのを眺めた。(中略)
1951年から1957年にかけて、原爆にちなんだ美の女王たちがラスベガスから現れた。キャンディス・キングという女優兼ダンサーは、1952年にラスベガス市政府が発表した広報写真の中で、「ミス原爆」という肩書きでポーズをとっている。写真に添えられた文章には、「ユッカ・フラットでの最近の原爆作戦に参加した米海兵隊員たち」を魅了した彼女は、「原子粒子の代わりに愛らしさを放っていた」と記されている。
その5年後の1957年、核をテーマにした最も象徴的な美の女王、リー・マーリン、通称「ミス原爆」は「原爆から最も生き残って欲しい女性」として祝福された。「ミス・アトミック」の称号は、当時の他の「アトミック」の称号と同様、美人コンテストの結果として授与されたものではなく、地元の観光局のやらせだった。にもかかわらず、大衆の想像力をかき立てることに成功した。ビキニと同様、アトム時代の美の女王たちは、第二次世界大戦後の数十年間、女性のセクシュアリティについての一般的な文化的認識を体現していた。
ちなみに、ミス原爆リー・マーリンの姿はアメリカのロックバンド、ザ・キラーズが2012年に発表したシングル曲「Miss Atomic Bomb」のジャケット(上掲)で見ることができる。また、ウェブサイト「Popular Mechanics」の記事「ミス原爆と1950年代ラスベガスの核の熱狂」は、こんなことを書いている。
ラスベガスの街は「アトミック・カクテル」や「アトミック・ヘアスタイル」「アトミック・パーティ」で溢れかえる「アトミック・シティ」へと変貌した。「アトミック・パワー」をもつアメリカ唯一の歌手と謳われた若きロックンローラーもこの街で毎晩演奏していた。そのシンガーの名前はエルヴィス・プレスリーである。