プリンスの初主演映画『パープル・レイン』はなぜ傑作なのか


プリンスがこの映画で演じたような役を演じることができる今のポップスターを思い浮かべるのは、不可能のように思われる。彼の人生に忠実に脚色されていることがあまり広く知られていないことを加味しても。虚栄心が強く、他者と協調することをせず、親友たちにさえ容赦なく疑いの目を向けるザ・キッドは、抗しがたいカリスマでステージを支配し、両親の家の地下室へ帰ると、父親が母親を殴ろうとするのをすんでのところで止めに入る。明らかに彼を愛しているアポロニアに対して、無関心を装った挙句、手を上げるのはおかしくないだろうか。音楽がなければ、『パープル・レイン』は家族ドラマだ。息子は、父親から受け継いだ才能という名の罪に甘んじている。それは、あやしげな精神の安定によって損なわれ、断ち切れない悪習(ザ・キッドにとっては女、父親にとっては酒)によって緩和される。首つり自殺をする悪夢のような幻想を見るキャラクターを、ジャスティン・ビーバーが演じるのを想像できるだろうか。

映画の中で、ザ・キッドはバンド仲間の音楽や提案を一切聞こうとしないが、実際のプリンスは、ザ・レボリューションと協働するのを厭わなかったという。そして、サウンドトラックには、彼のキャリアにおいて代表的な、まとまりがある象徴的な曲がフィーチャーされている。ジョニー・キャッシュ以降、ひとつの色を自分の代名詞にするパフォーマーはいなかった。『レッツ・ゴー・クレイジー』や『ビートに抱かれて』が全米および全英チャートNo. 1を射止めるまでは。しかし、これらの曲は、ザ・キッドとプリンスの人を寄せ付けないクールな外見の中を垣間見る手がかりとなり、サングラスの下に隠された煮えたぎる感情をあらわにした。『パープル・レイン』は、プリンスが決してできなかった、いや、おそらく決してしなかった謝罪で、裏切られたという彼の思いへの見せかけの礼儀を『コンピューター・ブルー』が払拭した時に、ウェンディ・メルヴォインを心底驚かせたと思われるアドリブだ。

激情と脆さを交互に見せるマイクの後ろのプリンスは、本当に真実味があり、彼自身でも彼が演じたキャラクターでもないように感じられた。『パープル・レイン』は、後に神秘的な雰囲気(多くの場合、実体を伴わない)を作り出す定型となるテクニックのすべてを駆使して、洗練と技巧が増していく時代の人間をあらわにした。この初主演作が完璧すぎたため、とりわけファンは、彼にもう映画を作ってほしくないと心のどこかで願った。主演第二作となる『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』を自ら監督したプリンスだが、映画製作者としての彼は、シンガーソングライターとしての彼が持つ才能と統制力のいずれにも欠いていた。ことに、彼という人物の陽気な面と感傷的な面を調和させることに関しては。マグノーリでなければ、そのふたつの面を融合させて、誰にも見分けられないアーティストのペルソナを作り上げることができなかった。――だからこそ、プリンスは傑作を誕生させることができたのだ。

Translation by Naoko Nozawa

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