ANARCHY見出したプロデューサー、RYUZOが語る2010年代「ゲットーのヤツが見てヤラレるものを」

「何をやったらおもろいのかと思った時に、やっぱりMUROさんかなと思ったんです」

ー2010年は『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』をリリースした年ですが、このアルバムのリリースは大きかったですよね。



RYUZO:俺が東京で歩いてる時に、スケボーでスベってる外人がいて。「RYUZOでしょ? HARLEM、外人一人で入れない」って言うから、「入れたるわ」って入れたんです。それがジョナ・シュワルツだったんですよ。俺はジョナの才能に気づいて、いろいろビデオを撮らせ始めてて。それである日ジョナがデイモン・ダッシュの弟を連れてきよったんですよ。その弟とめちゃくちゃ仲良くなって。NYに行った時に、弟がクリスマス・パーティーをやるから来いって言ってきて。行ったらそこにデイモン・ダッシュがいきなり現れたんですよ。「弟が『日本にインディのヒップホップ・レーベルをやってる友達がいて、ロッカフェラのことが大好きで、兄貴のやってきたことをリスペクトしてる』って言ってくれたんだ」「おまえのおかげで、10年間口を利いてなかった弟と仲直りできた。俺はおまえに何ができる?」って言われて。「いやあ」ってなってたら、「今、スキー・ビーツとCreative Controlっていうサイトをやってる。このトラックを全部おまえにやるよ。日本盤を作って出せ」って言われて。「マジっすか、師匠!!」ってなって。でも、これはR-RATEDだけでやったらあかん、ここで俺らはシーンに還元するべきだし、ヒップホップはやっぱり積み重ねだからこそカルチャーとして残るんだと思って。自分が影響を受けた人をフックアップして、レーベルの垣根を超えて何かやることが日本のヒップホップ・シーンに必要やと思ったんですよ。そしたらそれがバズったんですよ。そこで、ただの地方のレーベルから日本のレーベルになれたかもしれないですね。

ー2011年になると、ANARCHYは、全編MUROプロデュースによる3rdアルバム『Diggin’ Anarchy』をリリースしたり、朝日新聞社の「asahi.com」コラムに紹介されたり、日本人のヒップホップ・アーティストとして初めてBillboard LIVE TOKYOで単独公演をしたりと、快進撃が続きますよね。



RYUZO:何をやってもウケたし、その時はやり切ってるから、何をやったらおもろいのかと思った時に、やっぱりMUROさんかなと思ったんですよ。俺は死ぬほど好きやったし、MUROさんは一人のラッパーのアルバムをプロデュースしたことがなかったんです。MUROさんでアルバムをやって、バンドでBillboard LIVEでやったら、ただの不良じゃなく本当に音楽的に認められるんじゃないかと思って。ちょうどスキー・ビーツを成田まで迎えに行った時に、「おまえ、MUROと俺をつなげることができるのか」って言われて。「ナメんなよ、今電話したるわ」と思って、MUROさんに電話したんです。スキー・ビーツを連れてMUROさんの家に行った時に、ついでにANARCHYの話もしたんですよ。あと、『痛みの作文』という本を出したのも大きかったですね。

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