15歳でヌード動画が拡散、美女シンガーの今なお癒えない「傷」

私は自分の身体に居心地の悪さを覚え、恥じ、自信が持てなくなった。その上チームとは被害の対処法について気まずい話をしなくてはならなかった。テーブルの向こうに座る母親とマネージャーは、動画を見て私に失望しただろう。そんな思いに駆られるうちに、屈辱が私の中に深く刻まれていった。

チームのアドバイスは、動画に映っているのは私ではないと全面否定することだった。当時はそれが唯一残された選択肢のように思えた。顔全体が映っていたわけではないので、いったん公に否定して、あとは動画の拡散が続いても気にしないふりをすれば、憶測もやがて収まり、私も前に進めるだろうと。

だが、そうは問屋が卸さなかった。むしろ、動画に映っているのが私ではないと否定したことで余計に炎上し、私が嘘をついている証拠探しが始まった。人々は動画に映るマニキュアと私のInstagramにあがっているマニキュアの動画を比較したり、ベッドのヘッドボードを比べたりした。ほくろなど細かい点まで議論の対象になった。ネット上で自分の身体が何度も何度も切り刻まれていくのを目の当たりにするうちに、自分であることをやめ、内にこもって、二度と外に出たくないと願うようになった。

さらに悪いことに、他にも動画が出回り始めた。私の動画ではなく、私だと言われても分からないぐらいそっくりな別の女の子の動画だった。最初の動画よりもずっと際どかったが、両方一緒にまとめて投稿されたので、みんな何の疑いもなく私だと思い込んだ。私がしゃしゃりでて「こっちの動画は本物だけど、こっちは違うの」と釈明するわけにもいかず、ひたすら否定するしかなかった。

2020年の国際女性デーに、私はInstagramに声明を投稿した、動画に映っているのが自分だとついに認めた。これ以上自分を恥じないことにした理由を説明し、15歳の少女の信頼を裏切った人々こそ恥じるべきだと指摘した。たった1回の投稿だったが、人生でもっとも重要な決断だったと今でも考えている。結果がどうあれ、私は自信を取り戻す必要があった。

とはいえ自分でも驚いたことに、投稿ボタンを押すまでには相当勇気がいった。さらに驚いたのは、肯定的な反応をもらったことだった。自信を取り戻したいと思ってはいたが、投稿するまでに、キャリアや評判に傷がつく可能性も受け入れなくてはならなかった。どんなにひどいコメントにも対処する心構えができていると確信しなくてはならなかった。15歳の時の経験で、自分は憎まれても仕方がないことをしたと刷り込まれていたのだ。

だがそうはならなかった。むしろ、当時動画を拡散した人の何人かは謝罪してくれた。私と同じように、信頼していた人から裏切られた女の子たちからは、自分だけじゃないと教えてくれてありがとう、と感謝された。

私の方も、みんなに感謝するべきだ。癒しの過程で、人々からの反応がどれほど貴重だったことか。できることなら時計を巻き戻して、15歳の自分にもメッセージを伝えたい――自分は1人じゃない、こんな思いをしているのは自分だけじゃないんだ、と。

しいて言うなら――私はもっと守られてしかるべきだった。未成年がわいせつな行為に関わった画像を、意図して送ったり受け取ったりするのは連邦犯罪だ。確かに動画を送ったのは私だが、動画をやり取りした人数は、数千人とはいかないまでも、数百人にのぼる。それにネット上でばら撒いたのは私ではない。

女の子がまったく同じ形で、信頼されている人から裏切られたという話は長いこと後を絶たない。一方で、周りの大人たちは正義を追及するのではなく、なかったことにしてしまいがちだ。2016年には、元彼からヌード動画をTwitterでばら撒かれた15歳の女の子が自殺した――これはほんの一例だ。だが今日に至るまで、リベンジポルノに関する連邦法はまだ成立していない。

私の場合、もっと上手く対処できていたら、とはあまり考えないようにしている。考えても、自分が被害者だとすら気づけなかった15歳当時を不憫に感じるだけだ。大半のティーンエイジャーと同じように自分の身体やセクシュアリティに関心を抱いたせいで、自分は最悪だと思っていた私。他人の身勝手な行為のせいで、自分の身体や自分自身を憎むよう教え込まれた私。

あの事件から10年近く経つ。インターネットは相変わらず無情だが、今の時代にはああいうことは起こらないだろう。当時のインターネットはまるで様相が違った。今より匿名性が高く、法律もインターネット上の犯罪行為にどう対処すべきか苦労していた。「セクスティング」「ねっといじめ」といった単語がオックスフォード英語辞書に登場するのは2011年になってからだ。

現在15歳の子に同じようなことが起きた場合、ソーシャルメディア各社はそうした素材の拡散を防止するよう対策に追われることになる。こうした出来事がいかに有害か(違法であることは言わずもがな)理解も深まっている。だがインターネット文化も変わったように思う。以前よりも自粛規制が広まり、ネットコミュニティも被害者の側に回って、未成年者のみだらなコンテンツの拡散予防に努めている。前よりも善処できるようになったと信じたい。

だが何より重要なのは、私自身がもう自分を恥じなくなった。それに気づくのが最初の1歩だった。

マディソン・ビアー著『The Half of It: A Memoir』(Copyright © 2023 by Madison Beer)より、Harper社の許可を得て抜粋。出版元HarperCollins Publishers。

関連記事:米女子バレーボールチームの「不適切写真」流出、試合中にヤジ飛ぶ「ナイス乳首」

from Rolling Stone US

Akiko Kato

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE