ニューエイジ再評価の今、「癒し系」と呼ばれたディープ・フォレストに耳を傾けるべき理由

エリック・ムーケ(ディープ・フォレスト)

ディープ・フォレスト(Deep Forest)がビルボードライブ東京に初登場。活動30周年記念の特別公演「BURNING TOUR 2024 – 30th Anniversary」が4月8日(月)・9日(火)に開催される。世界各地の民族音楽とダンス・ビートを掛け合わせ、日本でも90年代に一世を風靡したフランス発エレクトロ・グループを今こそ再発見すべき理由とは? 音楽評論家の柴崎祐二に解説してもらった。

※追記:ディープ・フォレスト来日公演のチケットプレゼントを実施中、詳細は記事末尾にて。


今から約4年前の2020年6月、
過去に発表された重要アルバムを徹底解説する米音楽メディア・Pitchforkの名物企画「Sunday Review」で、とあるコンピレーション・アルバムが紹介された。1994年、『Pure Moods』というタイトルの元、Virginからリリースされたそのアルバムは、ヒーリング・ミュージックの視点から新旧の楽曲を編纂したもので、当時欧米圏を中心に大きなセールスを上げたことで知られている。私を驚かせたのは、いわゆる「インディー」文化を牽引してきたはずのPitchforkが、この、純商業主義的なコンピレーションを、わざわざ長大な文章とともに解説したということだった。

この記事が掲載された背景に、2010年代から2020年代初頭にかけてアンダーグラウンドな音楽シーンを賑わした、ニューエイジ・ミュージックのリバイバルの流れが深く関係していることは想像に固くなかった。しかし、それまでのニューエイジ再評価が、著名音楽家を対象としたものというより、どちらかといえばマニアックな作家による希少なレコードを中心に盛り上がっていたのと比較すると、この『Pure Moods』には、よりメジャーな、同時にそれゆえコアな音楽ファンからは何かと軽んじられがちだったアーティスト達による楽曲も多く含まれていた。例えば、エニグマ、エンヤ、ケニーG……等々。

そう。2020年の時点で、ニューエイジ(及びそれに類するフュージョン等)の再評価は既にここまで到達してしまったのだ。各地のリサイクル・ショップの片隅で埃を被っていた大量のヒーリング系(に類する)CDが、今や、90年代に漂っていた世紀末の空気を亡霊のように引き連れながら、私達の眼前に再び立ち現れてきたのだ。深化する大量消費社会、伸長する広告文化とメディア環境、経済と文化のグローバリゼーション。私達は既に、あの時代の様々な表象を、強烈なノスタルジアを起動させる触媒として、鋭く感知せざるをえない未来に立っている。そこでは、かつて高踏とされていたものは知らず知らずのうちに地位を失い、逆に、紛れもない大量生産品としてキッチュをまとわされていたものが、ある種の批評性を差し向けられて急浮上する。『Pure Moods』に収録されていた、ヒーリング・ミュージックの立役者たちによるいくつかの大ヒット曲は、まさにそういうアンビバレントな存在として、私達の嗜好を再び刺激してきた。


『Pure Moods』(ストリーミング未配信)の収録曲を集めたプレイリスト

その『Pure Moods』にも収録されたディープ・フォレストは、90年代におけるヒーリング・ミュージックの拡張、そして大量消費を象徴するアーティストだ。1992年のデビュー・シングル「Sweet Lullaby」は、欧米圏各国のチャートの上位に入り、同年の初アルバム『Deep Forest』(およびその再構成版アルバム『World Mix』)とともに、彼らはユニット始動の時点から世界的な成功を収めた。ソロモン諸島のバエグ族や中央アフリカのピグミー族による歌唱をサンプリングしたそれらの楽曲は、80年代以来の「ワールド・ミュージック」や「エスノ・ポップ」等の潮流とも共鳴する形で、欧米圏や日本における非西欧地域発民族音楽への関心をより一層高めた。




続く2ndアルバム『Boheme』(1995年)では、主に東欧圏の民俗歌を題材として成功を収め、更に、中南米のフォーク・ミュージックを取り入れた3rdアルバム『Comparsa』(1998年)も大きなヒットを記録するなど、ディープ・フォレストは他を圧倒する人気者となっていく。各地の伝統音楽の断片が、テクノやハウス、アンビエント、ダウンテンポ等と効率的に掛け合わされたその音楽は、ダンス・ミュージック〜エレクトロニック・ミュージックのシーンに限らず、ときのエコロジー・ブームとも合流しながら、ヒーリング〜ニューエイジの文脈でも広く大衆的な人気を獲得したのだ。




その一方で彼らの音楽は、度々苛烈な批判にもさらされてきた。各地の民族音楽をサンプリングするにあたり、使用許諾や収益分配の不備やその不透明性が指摘され、いわゆる「文化の盗用」の視点から厳しく指弾されてきたのだ。ここには、90年代当時のサンプリング音源使用にまつわる手続き面の未整備という問題も当然絡んでいただろうが、より根源的な視点としては、歴史上度々繰り返されてきた西洋による非西洋文化圏へのオリエンタリズムの問題が如実に浮き彫りにされたということもできるだろう。ディープ・フォレストは、デジタル機器を駆使したエスニックなダンス・ミュージックの旗手として広く評価を受ける一方で、まったく同じ理由から、抜き差しならない批判にもさらされてきたのだ。

もっとも、ディープ・フォレスト側に、その素材としてきた固有の民族音楽や文化を意図的に貶めてやろうとか、あからさまに収奪してやろうとう明確な目的があったとは当然いえないだろう。彼らも、上のような批判に対して、各地の少数民族の経済的自立を支援する基金へ収益の一部を寄付することで自らのリベラルな姿勢を示してきたし、メンバー本人たちも、世界中の人々へそうした文化の存在を広く知り、理解してもらいたいという思いを抱いている旨を度々語ってきた。

他方で、今一度翻るなら、こうした「素朴な善意」の存在によって、彼らの音楽へ注がれてきた批判が即時に効力を失ってしまうわけではないこともまた当然だろう。むしろ、そうした批判の存在を視野に入れながら、彼らの音楽が同時代の文化の中でどのように受容され、変質し、ときに脱文脈化されていったのかを考えてみる方が、現代のリスナーとして彼ら特有のアーティスト性へ深く迫るための(賛否双方の立場にとっての)順当な道筋となるはずだ。

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