モハメド・アリ、戦い続けた人生

Photo by Brian Bahr/Getty Images


アリとフレイジャーの3度目にして最後の試合は1975年10月、フィリピンで"スリラー・イン・マニラ"と題して行われた。摂氏38度にもなろうかという気温の中、2人のボクサーは危険なパンチを交わしながら、耐久戦を続けた。結局フレイジャーのトレーナーが第15ラウンドに立ち上がることを許さず、アリのテクニカル・ノックアウト勝利となった。試合後のアリは、「あの試合は自分が知る範囲で、最も死に近いものだった」と述べている。試合後インタヴューでは立ち上がることすらできないまま、アリはフレイジャーを「史上最高のファイターだ」と言った後、こう付け加えたのだった。「自分の次にね」

こうした海外での試合が物語るように、アリはすでに国際的なセレブリティであり、黒人の誇りの代表者となっていた。アリは自伝に基づいた1977年制作の映画『アリ/ザ・グレーテスト』に出演、自分の伝記映画に自分で出演するというまれな有名人の1人になったのであった。

アリのキャリア晩年は、栄光とはほど遠いものだった。1976年、ヤンキー・スタジアムで行われたケン・ノートン戦で判定勝ちを拾った際に観客からブーイングを受けたアリは、これからは信仰に生きるとして引退を発表する(ちなみにアリは当時、ネイション・オブ・イスラムを離脱しスンニ派イスラム教に入信したばかりだった。さらにその30年後、アリはスーフィー教団に改宗している)。

アリはほどなくリングに復帰したものの、健康状態もボクシング能力も明らかに衰えをみせていた。1977年、長年アリのドクターを務めたファーディ・パチェコは、アリの腎臓に長年のダメージの蓄積を診断した後、これ以上は手伝えないとしてアリの元を去った。アリは1979年に2度目の引退宣言をするが、ほとんどその直後にヘヴィー級王者ラリー・ホームズへの挑戦をぶち上げた。苦しむアリとの試合に、ホームズは消極的だったと伝えられる。

1980年10月に行われた試合では、ホームズはアリをあっさりと圧倒した。アリの全盛期を知るファンを戸惑わせるような残酷な試合だった。シルベスター・スタローンは後にこの試合について、「まだ生きている人間の検視解剖を見ているようだった」と語っている。アンジェロ・ダンディーが第10ラウンド終了時点で試合を止めた。それでもアリは引退を拒否、もう1度だけリングに立ち、1981年12月にトレヴァー・バービックに10ラウンド判定負けを喫した。

アリはデビュー当時から、アメリカのポピュラー・カルチャーに組み込まれていた。アリは1963年にベン・E・キング版の『スタンド・バイ・ミー』を録音している。その1年後にはボブ・ディランが『アイ・シャル・ビー・フリーNo.10』で、自分ならチャンピオンをぶっ飛ばせるとユーモアたっぷりに歌っている。このうえなくフォトジェニックなアリが一緒におもしろポーズをとれなかったセレブはほとんどいないし、アリと一緒にフレームに収まるチャンスを逃すセレブもほとんどいなかった。初めてアメリカにやってきたザ・ビートルズも、何とかアリとの面会をとりつけ、カメラの前で一緒に悪ふざけをしている。

70年代には、アリはあまりにも有名になり、ほとんどフィクションのキャラクターか、伝説の存在のように思えることもあった。DCコミックスの1978年作品では、アリとスーパーマンが組んで、宇宙人の侵略を阻止している。さらに同じ頃、土曜の朝にはアリのテレビ漫画『I Am the Greatest: The Adventures of Muhammad Ali』が放送されていた。ヒップホップの台頭に伴い、ウィットに富み、自信満々なライマーであるアリのことをラッパー達が見いだし、LLクールJから50セントに至るまでのMCがリリックの中でアリの名前を持ち出している。この半世紀にわたり、人が何かの分野で自分こそがグレーテストな存在だと言いたい時、一番簡単な方法はモハメド・アリを持ち出すことであった。

Translation by Kuniaki Takahashi

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