名曲誕生の舞台裏、突然の解雇…業界屈指の名ドラマーがエルトン・ジョンと共に歩んだ50年

ー初期の作品群では、あなたはアルバムにつき1曲しか参加していませんが、その理由は?

当時僕は他のプロジェクトも抱えてたからね。ユーライア・ヒープもそうだけど、あの頃新しいバンドのリハーサルが始まったばかりだったんだ。ある人物からそのプロジェクトに参加してほしいって依頼されて、とりあえず数カ月間一緒にやってみて、うまくいきそうならレコーディングにも参加することになってた。でも僕はやっぱり、スタジオでの作業よりもツアーに出てるほうが好きなんだ。田舎のスタジオに何カ月も引きこもるっていういうのが、どうしても性に合わなかった。それで結局ロンドンに戻ってきちゃったんだけど、後になってそのバンドがスーパートランプだって判明したんだ(笑)いい曲を書くなとは思ってたけど、僕好みじゃなかった。エルトンがガス(・ダッジョン)やポール・バックマスターとレコードを作ってた頃、僕はそういう立場だったんだよ。

『エルトン・ジョン3』では「過ぎし日のアモリーナ」に参加していますが、あの曲のレコーディングで印象に残っていることはありますか?

あれはオリンピック・スタジオで録ったんじゃないかな。エルトンと一緒にやり始めて間もない頃に、僕とディーが参加した最初の曲のひとつだね。あんなレコーディングは初めてだったよ。 現場の誰一人として「こうしたほうがいいんじゃないか」なんて口にしなかった。それぞれのスタイルがうまく噛み合ってたからね。しばらく後にパリ郊外のスタジオに入った時や、コロラドのカリブー・ランチでのレコーディングの時もそうだった。それぞれのセンスが相互作用する形で、バンドにケミストリーが生まれていたんだ。それは今でも変わってないよ。他のメンバーが何をやろうとしているかが、手に取るようにわかるんだ。出会ったばかりの頃に作った初期のレコードには、そういうムードが特に顕著に現れてると思う。彼らとは素晴らしい時間を共有してきた。まさにソウルメイトさ。

ー1970年代前半、あなた方は驚くべき数の名曲を生みだしました。その圧倒的なペースに、自分ではどう感じていましたか?

まさにマジックだったね。当時はものすごく忙しかった。ツアーに出て、戻ってきたらすぐに次の作品のレコーディングを始めて、既発の曲群と新曲を組み合わせたセットリストを組む、その繰り返しだったよ。ツアーに出るときは、必ず発表前の新曲をたくさん用意していった。毎日があっという間で、成功を実感する余裕なんてなかったんだ。それはアメリカでの状況だけどね。その頃僕らは、イギリスじゃまだまだ無名だったんだ。

ーエルトンのソングライティングのプロセスについて教えてください。彼は過去のインタビューで、バーニーから歌詞を受け取るとそのままピアノに向かい、その内容に目を通しながら即興でメロディを作っていくと語っています。

それは本当だよ。初期の頃、バーニーは歌詞以外には完全にノータッチだったにもかかわらず、よくレコーディングの様子を見に来てた。エルトンは歌詞に目を通しながら、まずその曲に適したテンポを見極めるんだ。それからランダムにコードを弾き始めたかと思えば、気付いたときには曲になってるんだよ。

文字通りあっという間に完成した曲もある。「ダニエル」なんかは15分くらいで出来上がったんじゃないかな。まるで魔法だったね。みんなで朝食をとってるときに、彼が思い立ったようにピアノを弾き始めて、書き上げた曲をすぐスタジオで録るなんていうことも珍しくなかった。そういう場合に備えて、スタジオはいつでも作業できる状態になってた。彼が曲を生んでいく様子を目の当たりにして、僕らの想像力も大いに刺激された。とりわけ有名な曲の大半は、多くても4テイクくらいで仕上げたと思う。最初のテイクがそのまま音源になった曲もあるよ。僕らは最初からそういう感じだった。

僕が特に意識するのは、歌詞の内容とピアノの低音部なんだ。僕は自分を描写的なドラマーだと捉えていて、歌詞のイメージに合ったドラムを心がけてる。間奏の部分で、ここぞとばかりにビッグなドラムソロを叩くドラマーは多いけど、僕は敢えてそうしない。僕はそういう部分では、歌を待つ気持ちを優しく煽るようなドラムを叩くようにしてる。それが僕のスタイルだし、このバンドにはすごく合ってるんだ。

Translated by Masaaki Yoshida

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