殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」

ホワイト・アルバムがマンソンを虜にした理由

ホワイト・アルバムはたちまちマンソン・ファミリーの間に浸透していった。アルバムがリリースされる前、マンソンはスーザン・アトキンスを“セディ・メイ・グルツ”と改名していたが、アルバムの中に「セクシー・セディ」というポップな曲が収録されていたため(もともとは、ミア・ファローを誘惑したとされるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー氏にちなんで“マハリシ”というタイトルがつけられていた)、自分が先を見越していたかのような気になった。彼はバラード「アイ・ウィル」の歌詞――「君の歌が大気を満たす/歌っておくれ、君の声が聴きたいんだ」――を、自らアルバムを制作して、我こそはイエス・キリストの再来だというメッセージを世に広めろと命じられたと解釈した。またハリウッド音楽にオマージュをささげた変わった1曲「ハニー・パイ」(20年代の舞台芸人の音楽にマッカートニーのギターリフをのせた曲)では、自分こそは歌う救世主だという思いを強めた。また「ドント・パス・ミー・バイ」や「ヤー・ブルース」、『マジカル・ミステリー・ツアー』の「ブルー・ジェイ・ウェイ」を聴いては、ビートルズが自分を探し求めている、と言った。

マンソン・ファミリーは、イングランドに電報や手紙を送ったり電話をかけたりして、人種闘争が来る前に仲間に加わるようビートルズを誘ったと言っているが、実際にはバンドと接触することはなかった。そこで彼らはマンソンのアルバム制作に乗り出した。マンソンはプロデューサーに、ビーチボーイズとも仕事をしたこともあるドリス・デイの息子、テリー・メルチャーを希望していた。メルチャーはシエロ・ドライブ10050番地に住んでいたが、マンソンとの関係を絶ってシエロ・ドライブの家から引っ越したため、レコーディングは実現しなかった。その後すぐに入居したのが、ローマン・ポランスキーとシャロン・テートだった。

その間ずっと、ホワイトアルバムの曲はマンソンの中でどんどん大きな存在になっていった。バグリオシ氏が『Helter Skelter』の中で書いているように、「ロッキー・ラックーン」――マッカートニーとレノン、ドノヴァンがインドで思いついた“ロッキー・サッスーン”という名のカウボーイから生まれた、お茶目でメロドラマ風の楽曲――は、マンソンにとっては暗にアフリカ系アメリカ人の蜂起についての物語だった(マンソンは“クーン”という響きが気に入っていた)。「“ロッキーの復活”――復活、つまり蘇るってことだよ」とマンソンは1970年、ローリングストーン誌に語った。「黒人の男が再び権力の座に戻るのさ」。また、おそらくレノンが手掛けた中でもっとも意味深な曲「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」も、バグリオシ氏の言葉を借りれば、マンソンには「ビートルズが黒人連中に、銃をとって白人と戦えと言っている」という意味になった。

マンソンが特に好んでいたのが、「ブラックバード」「ピッギーズ」「レボリューション1」「ヘルター・スケルター」「レボリューション9」の5曲だ。マンソンの信者らはのちに、彼がアルバムの最終曲のタイトルを『ヨハネの黙示録』9章になぞらえていた、と証言した。『ヨハネの黙示録』9章には、底なしの地獄の穴が世界にぱっくり口を開け、天使が神にむかってラッパを鳴らすまで、長い髪をした擬人化したイナゴの害が発生し、不信心な人々を苦しめる、と書かれている。ファミリーの一員だったグレッグ・ジャコブソン氏は『Helter Skelter』の中で、マンソンが聖書と「ビートルズの楽曲、メンバーの口から発せられたパワーを比較していた」と述べた。

「ブラックバード」は、マッカートニーが手がけた心揺さぶるアコースティックソング。市民権運動の黒人女性たちへの応援歌も、マンソンの中ではアフリカ系アメリカ人が体制に果敢に挑む歌として響いた。ワトキンス氏がバグリオシ検事に語ったところでは、「ブラックバードが真夜中に歌っている/折れた翼で飛ぼうとして……君はただ、立ち上がる瞬間を待っていた」という歌詞を、マンソンは「黒人たちが立ち上がり、さっそく取り掛かって事を起こすよう、ビートルズが仕向けているのだと解釈していました」。「“立ち上がれ”というのが、チャーリーにとって重要な言葉のひとつでした」とジャコブソン氏は検事に語ったが、これがマンソンの動機を確立する決め手となった。ラビアンカ家の壁にも「立ち上がれ」という血文字が書かれていたからだ。

Translated by Akiko Kato

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