ジョージ・ハリスンの覚醒
この混沌とした事態の中、ジョージはソングライターとしての成熟の気配を見せ始めていた。ジョンやポールと比べれば、この面での自分の才能についてはつねに謙虚だった彼が、である。
「実際その気にさえなれば誰にでも曲を書くことはできると思うよ」
1969年10月に行われたインタビューで彼はそうも言っている。
「僕もただ書くだけだ。歌ってのはきっと、それ自身が望んだ通りに出てくるもんなんだろうね。中にはキャッチーなものもある。『ヒア・カムズ・ザ・サン』みたいにね。だけどそうでないやつも時々ある。だからその、わかるだろう?――自分でもね、どこで空回ってるのかはよくわかってないんだよ」
次回、4月16日のバンドでのセッションは、すべてが彼の手による二曲に費やされた。「オールド・ブラウン・シュー」と初期バージョンの「サムシング」である。
続く3週間、バンドはアビイ・ロードとオリンピックの両スタジオに通い続けた。プロデューサーのクリス・トーマスとエンジニアのグリン・ジョンズと一緒に、様々な曲の一部なり断片なりに取り組んだ。「アイ・ウォント・ユー」をもう少しやり、ポールの「オー!ダーリン」にも手をつけた。リンゴの「オクトパス・ガーデン」は『レット・イット・ビー』のセッションから持ち越されていたものだった。八分にも迫ろうという「サムシング」のやりなおしには再びプレストンが参加した。それから「ユー・ノウ・マイ・ネーム」もまた部分的に取り上げている。これは1967年の中頃からずっと手をつけていた、いわば“おふざけ”だった。