『GUNDA/グンダ』映画評 モノクロームの映像美で綴る、ある母豚の日常

何年も前から『GUNDA/グンダ』の構想を温めてきたロシア出身のコサコフスキー監督は、同作を通じて難しいことに挑戦している。監督は、私たち全員に正直であることを求めるのだ。辛辣かつ多様な戦略——考え抜かれた策略の賜物であるものの、その多くは保守的なミニマリズムに近いのだ。それを通じて監督は、映画を媒体とすることで同じ正直さを要求する。写真乳剤(訳注:写真術で用いられる感光材料の一種)を使うプロセスには、『GUNDA/グンダ』に登場する動物の皮から抽出された動物性コラーゲンのゼラチンが使用されている。こうした家畜を扱う映画は、本質として被写体を殺しているのだ。

コサコフスキー監督にとってこれは偶然の事実ではない。それと同様に、私たちが見ていると思い込んでいるものが実際にはそうではないことも偶然ではないのだ。『GUNDA/グンダ』は、被写体の世界と私たちの世界に与えるインパクトを最小限に抑えながら、美しさと雄大さを描こうというコサコフスキー監督の試みである。同作は、グンダが暮らすノルウェーの農場や牧草地だけでなく、スペインとイギリスで数カ月にわたって撮影された映像で構成されている。一見同作は、過剰な撮影と膨大なゴミと引き換えに実現される明晰かつ親密な自然美をねらっているかのような印象を与える。だが、実際コサコフスキー監督が撮った映像の合計はわずか6時間にすぎない。可能な限り動物たちの世界に溶け込むために監督が研究に費やした時間は、ここには含まれていないのだ。「必要性がなければ撮りません」と監督は言った。「無駄にするべきではありませんし、私が[撮影開始]ボタンを押すのは、本当に必要に迫られた時だけです」

ゴミを最小限に減らすにはどうするべきか? コサコフスキー監督は、グンダのために大きな納屋をつくり、すべての角度から内部の出来事を撮影できるようにカメラを数台設置した。移動しながら被写体を撮影するトラッキングショットは、後で使えるように前もって撮影した。監督の判断は、グンダの一挙手一投足の意味——鮮明で注意深い映像、ARRIのミニカメラ・ALEXAがとらえたグンダの納屋の映像、顔の周りを飛び回るうるさいハエにじっと耐える牛の姿を写したステディカムの生き生きとした映像など——に不適当なプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。


© 2020 Sant & Usant Productions. All rights reserved.

だが、『GUNDA/グンダ』の面白さは、どういうわけか、こうした要素がすべて重要であるという点にある。コサコフスキー監督のねらいは、動物たちの日常をただただ観察すること、ひいては数カ月にわたって動物たちを撮影し、目の前で子豚の成長を見守りながら、彼らの内面世界のようなものを観客に感じさせることにあるのだ。これ以上シンプルなことはない。牛、鶏、グンダと子豚たちは、互いのことを知らない。YouTubeの再生履歴画面に表示されるような「動物界の意外な友達」的な動画とは違うのだ。同作は、日常生活における動物たちの近接性を暗示することで社会的な関係性をつくりあげている。一貫性のあるストーリーを語ることに焦点を絞り、埋められない溝を埋めようとすることで、私たちが脳内で存在しない関係性を構築することを奨励しているのだ。

そのうえ同作は、美的一貫性という手法を用いて動物たちの正当なつながりを提示している。納屋、牧草地、養鶏場を離れた鶏が生まれて初めて足を踏み入れる新しい世界など、コサコフスキー監督の映画づくりには、計り知れないほどのパノラマ的な衝動が込められている。コサコフスキー監督とともに撮影にあたったエーギル・ホーショル・ラーシェンは、物語の冒頭からループのような筋立てをいくつか構築している。監督は、それぞれのグループの‘できそこない’や孤独を好む動物を見つける手腕に長けているのだ。さらに重要な点として、監督は観客の目線を動物たちの目線と同じレベルに限定している。そこから得られる効果は明白で、インパクトも大きい。監督がこうした図式から逸脱した時でさえ——木に縁取られた土地に沿って牛たちが自由に草の上を駆け巡るドローン映像など——『GUNDA/グンダ』の広大さには一貫性がある。

その広大さには、感傷的ともいうべき偉大さがある。それは、私たちが持っている動物の感情生活の感覚へと戻ってくる。私たちは、尻尾を振り、顔中にハエがついた高貴とは言えない動く牛——当然、家畜なので耳にはタグが付いている——のポートレイトを提示される。『GUNDA/グンダ』のカメラがとらえた被写体のなかでも、カメラを見つめ返す頻度がもっとも高いのが牛たちだ。ある時点で私たちは、彼らの眼差しを通じて自分自身に立ち返る。こうした眼差しに意識がないと言えるだろうか? 牛たちは、互いの尻尾を使ってハエを追い払う。そこにあるのは、まさに絆なのではないだろうか?

または、養鶏場から恐る恐る出てくる鶏たちを見てほしい。コサコフスキー監督は、そこここでこうした映像のスピードで戯れている。鶏の小刻みな動きは、スローモーションによってまったく見慣れないであるかのように映る。その見事な効果は、当初カラーで撮影された同作が色補正によって無感情なモノクロ映像になったのと同じくらい際立っている。スローモーションがとらえた鶏の脚のクローズアップは、感情を掻き立てる。私たちは、鶏そのものを宇宙人のように異質な存在と感じるのではなく、鶏が初めて草を踏む感覚に戸惑うのだ。

Translated by Shoko Natori

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE