クラプトンとも共演した世界的プログレ奏者、奥本亮が語る「根性の半生」と海外での学び

 
アメリカで勝ち取った信頼、人生の転機

1981年3月に渡米した奥本は、ディック・グローブ・スクール・オブ・ミュージックというプロ養成に特化した音楽学校に入学、そこでジャズ・ピアノ、作曲・編曲、そして映画音楽について学ぶ。在学中からラモント・ドジャー(ホーランド=ドジャー=ホーランド)に弟子入りするかたちでアレンジャーの世界に突入し、ナタリー・コールやアレサ・フランクリン、バリー・ホワイトなど錚々たるアーティストを手掛け、ツアーにも同行するという多忙ぶりだった。これらの仕事を全力でこなすことによって、奥本の信頼度は一気に上がったと考えていいだろう。

「ラモントのアルバム『Inside Seduction』(1991年)のレコーディングでは、俺がアレンジした曲をエリック・クラプトンやフィル・コリンズが演奏してくれた。フィルがモールス信号のような譜面を自分で書きはじめたときは笑っちゃったけど、彼があのTR-808を鳴らしてドラムを叩き、最後にコーラスを歌いはじめたときは鳥肌が立ったね」(奥本)



ある日、LA北東部パサデナの仕事で知り合ったギタリストのアラン・モースに誘われるがまま奥本はノースハリウッドに赴き、そこでジャム・セッションした相手がニール・モースとニック・ディヴァージリオだったという。

「このときのアランとの仕事のギャラは、たった2000円だった。音楽の仕事というのは一度断ると二度と来ないとわかっていたから、依頼された仕事は全部引き受けていたよ。アメリカは広いけど、どこにチャンスが転がっているかわからないからね。例えばピアノ・バーで酔っ払い相手に演奏するときでさえ、客席に誰が座っているかわからないし、もしかしたら著名な人物が自分を見つけてくれるかもしれないと思っていたから、とにかくどこにいても本気で演奏していた。そしたらアランたちがプログ・バンドを結成するからぜひ参加してほしいと誘ってきてくれた。それがスポックス・ビアード(Spock’s Beard)のはじまり、俺のプログレ道のはじまりとなった」(奥本)


スポックス・ビアード、2012年のライブ映像

日本では渡米後の奥本の地道な活動はほとんど伝わってこなかったが、スポックの一員となったことで彼の名は世界中に知れ渡ることになった。スポックには1996年から正式メンバーとなり、現在に至るまで活動を続けている。また2002年にはソロ4作目となる『Coming Through』をリリース。サイモン・フィリップス(Dr)をはじめ当時のTOTOのメンバーやスポックのメンバーなど豪華ゲスト陣を迎えて作られたプログレッシブAORの傑作だった。またほかにもK2や元エイジアのジョン・ペイン率いるエイジア・フィーチャリング・ジョン・ペイン、そのメンバーで組んだGPS、自身のリョウ・オクモト・プロジェクト、ルー・グラム・バンドに至るまで、いまではジャンルを問わず方々で引っ張りだことなっている。

「2006年のある日、留守電にイエスのクリス・スクワイアからメッセージが残っていて、リッケンバッカーの75周年記念コンサートがハリウッドであるからバンマスやってくれないかと頼まれた。スポックのメンバーを呼んでリハがはじまり、クリスがベースを弾きだしたときの感動はいまでも忘れられないよ!」(奥本)

 
 
 
 

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