瀬尾一三のアレンジ曲から読み解く、70年後半から80年代頭の音楽的な文明開化



田家:1983年発売、長渕剛さんの「GOOD-BYE青春」。作詞・秋元康さん、作曲は長渕剛さん。瀬尾さんは長渕さん79年のアルバムに携わっている。その頃はどんなことをお考えでした。

瀬尾:前も言ったことがあると思いますが、とても純朴な青年だった。今はちょっとどこ行くかよくわかんないおじさんだけど、九州から出てきたすごく純朴な感受性の強い良い青年だったのだなと思ってましたよね。

田家:この「GOOD-BYE青春」あたりから長渕さんの音楽がロック寄りになって、このあと瀬尾さんがロサンゼルスのレコーディングという道を開かれるわけでしょう。

瀬尾:その間にもいろいろと過程があったんですけど、彼の中の夢でアメリカのミュージシャンとやりたいっていう、それもブルース・スプリングスティーンのバンド、Eストリート・バンドとやりたいというのがあって。あんた本気?って聞きたいぐらいな要求がありまして。その頃僕は他の方のレコーディングをLAやってて、その流れで交渉してみようと思って。レコーディングしてたスタジオで、幸運にもそこのバンドのリーダーのロイ・ビタンっていうキーボードの人がいたんですよ。直訴しまして。日本にスプリングスティーンみたいな男がいると言って。参加してくれないかっていう話をしたら、スケジュール的にちょうど空いてたんですよ。今の仕事が終わったらいいよっていうことで。ロサンゼルスでロイ・ビタンを中心に、彼がやりやすいスタジオメンバーを集めましょうということで、その人たちに全部交渉していって、集まってバンド形式にして。それで長渕さんを呼んでレコーディングしたということですね。

田家:長渕さんは今も外国人のミュージシャンと一緒にやったりするときありますからね。その流れのきっかけを作ったのが瀬尾さんだった。

瀬尾:まあ本人の望みだったので一生懸命やりました。当たって砕けず、成功しました。



田家:八神純子さん「黄昏のBAY CITY」、作詞作曲は八神純子さん。八神さんは去年女性ソングライターの殿堂というところに表彰された。この曲がアメリカで評判だという話は先週もちょっと出ましたけど、日本発の闇鍋の洋楽っていう。当時のミュージシャンもプロデューサーも含めて洋楽をどう日本で形にするか考えていた。

瀬尾:洋楽の取り入れようですよね。かぶれてしまったって言ったらおかしいけれど、本当に僕たちにとっては耳新しい音楽がどんどん入ってきた時代だったので、やってみたいっていうのがやっぱりすごくありましたよね。

田家:でも演奏できるミュージシャンも限られてた。

瀬尾:演奏できる人たちも練習したりとか、リズム感とかをすごく取り入れようとしていた。ミュージシャンもエンジニアも僕みたいなアレンジャーとかプロデューサーも吸収して、それをどうやって咀嚼して日本風にどうやったらできるか。日本語にどうやってどうやって融合できるか、その化学変化はどうなるかを一生懸命やってた頃ですよね。

田家:それが今世界で、あの頃の日本にしかない音楽として受け入れられている。

瀬尾:僕が闇鍋って言ったのは何かって言ったら、イギリスとかアメリカ西海岸・東海岸とか南の方とか、そういうものが全部妙に入り混じってるんですよ。だから闇鍋って言ってるんですけど、料理でも最終的にイタリアでは食べないナポリタンみたいな作ったりとかするわけじゃないですか。こちらは音楽でやってたと思うんですね。だから素材としての、かっこいいなとかやってみたいなっていう音楽をずっと聞いたり、ミュージシャンだったら練習したりしながら、日本人という体を通して日本語を歌う歌手メロディってところにどうやって合わせていくか。そういう作業を試行錯誤でやってた時期なので。そういうことを全く知らない新しく生まれた人たちの音楽はわかってなくていいんですけども、一応この際だから言っときますけれども、そういう時代がありましたということです。で、外国の人たちがそれを J-POPとして面白がってくれるのは、いろんな要素が入ってるにも関わらず独特の香りがあるから、調理の仕方が面白がってくれてるんだと思いますね。

田家:そうやって生まれた音楽が今海外でサンプリングのソースとして使われてる時代であります。次の曲もですねそんな流れの中の曲じゃないでしょうか?

Rolling Stone Japan 編集部

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