笠置シヅ子が起こした革命、刑部芳則が語る服部良一によるリズムの実験

ハーイ・ハイ / 笠置シヅ子



田家:昭和26年、1951年10月発売。これも作詞はご本人ですね。服部良一さん。

刑部:これは私大好きな1曲なんですよね。非常にテンポが速い。リズムがいいなと思うんですけど、「オールマン・リバップ」の裏面なんですよね。ブギからビバップへと変えていく、転換期の1曲なんですよ。音楽を専門にやっている人からすると、服部さんのリバップのビバップの捉え方が合っているか間違っているかというのはいろいろ賛否両論あると思うんですけど、ただ服部さんは当時ビバップという音楽はこういうものだと言って解釈したのがこの2曲という感じなんですよね。

田家:何が正解かとか参考になるような資料とか、まだ日本に入ってきてないでしょうからね。服部さんの自伝『ぼくの音楽人生』の中に、日本は空前のジャズラッシュ時代を迎えることになるという一文があって、それは昭和26年のことなんですね。昭和26年の9月に日米講和条約、サンフランシスコ講和条約が結ばれて、日本とアメリカの関係が変わって日本に入ってくるアメリカ文化の量も遥かに増えていく、そういう転機の年なわけでしょう?

刑部:そうですね。日本の歌謡界というのはこのあたりから日本調の復興みたいなものも出てきて、だから当時だと例えば江利チエミさんの「テネシー・ワルツ」なんかが27年に流行ると。一方で、神楽坂はん子さんの「ゲイシャ・ワルツ」という形で日本のワルツみたいな。洋楽的なポップスみたいなものと、日本調のものというのが流行っていた頃の曲ですよね。

田家:講和条約ができるまでは日本調というのはあまり表に出られなかった?

刑部:いや、そんなことはないんですけどね。やっぱり占領下というか、この頃は「東京ブギウギ」に代表されるように新しい欧米の曲というものを使ったような曲の方がむしろヒットしていたんですよね。

田家:幅を利かせていた、大手を振っていたみたいな。それがまたここから変わってくる。服部さんは日本的なものと洋楽的なものを両方ともご自分の視野に置かれていた人でしょう?

刑部:そうですね。だからやっぱり外国で流行っているものをそのままそっくり持ってきたって売れないってことはわかっていると思うんですよね。それを日本の流行歌を好む一般大衆に買ってもらえるような形で、仕立てている。どの曲もそうだと思うんですよね。

田家:さっきの「ボン・ボレロ」の中に日本の太鼓は難しい、ジャズよりややこしいし難しいって歌詞がありましたもんね。向こうから入ってくるものばかりを礼賛していていいんだろうかというものもあったのかなと思ったりもしましたけどね。Disc2の後半はそういう意味では笠置シヅ子さんと服部良一さんの挑戦の歴史の一端を垣間見たような気がしたんです。

刑部:まさにそうだと思います。新しい、言ってみれば戦前のブルース、そして戦後になってブギ。今度は新しい、それがビバップなのか何なのかというような。常に新しいものに挑戦していこうというのが、このあたりから始まっているんだと思いますね。

コンガラガッタ・コンガ / 笠置シヅ子



田家:1953年、昭和23年に発売。これも型破りな曲ですね。キーワードはコンガなんでしょうね。

刑部:コンガというのがキーワードになっていますけど、「コンガラガッタ・マンボ」でもいいかなというか。マンボのリズムを感じるんですよね。

田家:マンボと言えば、さっきおっしゃった新しいリズムをみんな探していたという中にマンボ、美空ひばりさんの「お祭りマンボ」みたいな曲もあるわけでしょう。

刑部:そうですね。今おっしゃったように「お祭りマンボ」に付かず離れずな感じもするし、その勢いにも負けないスピード、テンポを持っていますよね。

田家:特に歌のスピード感はね。

刑部:昭和20年代の後半、特に昭和30年代になってからも大変普及するんですけど、日本にマンボが上陸してきて人気になりますよね。そういうものをいち早く取り入れて挑戦しようというのが、この曲に表れている感じがするんですよね。

田家:ひばりさんと笠置シヅ子さんはいろいろな因縁があるお2人なんでしょう?

刑部:そうですね。美空ひばりさんは笠置シヅ子さんに非常に憧れていたし、尊敬していたみたいなんですよね。だから、自分の曲が持ち歌だとかヒット曲が出る前というのは笠置さんのものまねで出てきたというふうにひばりさん自身が言っていますよね。

田家:昭和22年の横浜国際劇場で2人が共演したことがあって、ひばりさんが「セコハン娘」を歌いたいと言ったときに、笠置さんの方が歌わせなかったというエピソードがありましたよ。

刑部:歌わせなかったというか、結局被るからということもあったんだと思うんですよね。

田家:昭和25年のハワイアメリカ公演の2ヶ月前、ひばりさんのアメリカハワイ公演があって、そのときにブギを歌わせなかったという話もあったとか。

刑部:これも同じことで、結局その後に笠置さんと服部さんが行くのに、その前に同じようなものをやられちゃったら自分たちのインパクトがなくなってしまうからということで歌わせなかったというより、やめてほしいということを言ったみたいですね。

田家:それがいつの間にか尾ひれがついて、2人が犬猿の仲だみたいになっていたという。

刑部:そうそう、そういうふうになっちゃっていますけどね、違うんですよ。

田家:「お祭りマンボ」の作詞作曲・原六郎さんは日本橋の出身で、服部良一さんと笠置シヅ子さんは大阪でしょう。「コンガラガッタ・コンガ」と「お祭りマンボ」も大阪と東京で張り合ってるのかなみたいな、そういうおもしろがり方もできるかなと思ったり。

刑部:ただ原六郎さんと服部良一さんは戦前からジャズやなんかの草分け的な存在でね、非常に仲が良かったんですよ。調べてみると分かるんですけどね、笠置シヅ子さんのレコードとして発売されてきたような作曲というのは、十中八九、服部良一なんですよ。ただ1つだけ例外があるのが原六郎さんの作品があるんですね。

田家:そうなんですか。

刑部:だからお互いに認めあっていたというところがあったと思いますね。

田家:なるほど。張り合っていたわけではないというのが証明された、そんな話かもしれませんが今日の7曲目マンボです。「エッサッサ・マンボ」。

Rolling Stone Japan 編集部

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