BREIMEN・高木祥太が児童精神科医・三木崇弘に聞く、人間の「凸凹」とADHDへの対処法

ADHDや発達障害に効く
薬はあるのか?

ーADHDや発達障害って、たとえば薬を飲むとか、手術をするとか、何か解決できる手段はあったりするものですか。

三木 あのですね、これを言うと製薬会社が喜ぶんですけど、薬はあるにはあるんです。ただ僕がよく言うのは、症状をコントロールする薬であって、その人を変える薬ではないと。だからやめると元に戻ります。たとえば教室をうろうろして授業中に友達にちょっかい出してる子には、「それはよくないよね」って噛んで含めるように言い続けたり、勉強がつまらないからうろうろしているんだとしたら「じゃあ勉強がわかるようにして座っていられるようにしよう」みたいにアプローチすることが正しいと思います。でも明日から座れるようになるわけではないので、1日経てば1日分「あいつウザいな」って周りから思われてその子の社会関係は悪くなるじゃないですか。周りからの関わりもネガティブになって、その子のコンディションを悪くするから、だったら薬を飲んででもちょっと落ち着いてもらって、そのあいだに経験を積んで成長してもらおうと。症状を抑えるのがメインの目的ではなくて、そうすることによってその子の成長の角度が上がるという想像ができるんだったら薬を飲もうよ、という話をよくします。でもそこは人によってまちまちで、薬をたくさん出す医者もいれば慎重な人もいるし、親御さんも「いや、薬は……」という人もいれば、「もうとにかく何でもいいから落ち着かせてくれ」という人もいます。そこはすり合わせながらという感じですかね。本人にとって長期的に意味があるんだったらまあ使えばいいかな、というくらいで思っておいてもらうといいかな。

ー根本的には生き方と環境をどう変えるかだと。

三木 そうですね。高木さんのお話だと、お母さんが「まあいいんじゃね?」というスタンスじゃないですか。だから自分も「いいんじゃね?」と思える自己肯定感が育った。そこで「あんたそんな忘れ物ばっかりして、何なん?」みたいに言われ続けると、発達特性がなくても、人ってそういうことを浴びて育つと歪むじゃないですか。それをどうするかですよね。大人がみんなそういうことに対して受容的かというと、今は大人も余裕がない人が多いですし。

高木 そうですよね。そういう意味では、そんなに自己否定をせずに済みました。しいて言えば、中学生のときにいじめられていたんですけど、そのときのことを思い出すと多分そういうところに原因があったのかなと思ってて。それこそ学校の先生に相談したときに、「でも君にも非があるよね」みたいな感じで「あ……」みたいになったりしたんです。ただ親がそんな感じだったから、そこまで自分の特性を否定せずに済んだんですよね。でも多分、それって稀な例な気がしていて。自分で自分の居場所を作るのって難しいじゃないですか。結局、そこに関わってくる話ですよね。

三木 そう。子どもって、発達特性あるなしに関係なく、まずは周りの大人と周りの社会から受容されて、許されて、「あ、自分はいていいんだ」と思って育っていくので。特性があっても「ま、あんたはそういう子やからな」というスタンスで見てもらえるとどうにかはなると思うんです。でもそれが今、許されにくいというか。電車でちょっとギャーって言ったら大人が睨むし、小学校で教室を出ようとしたら「大人が誰かついてないと」となって先生がわらわら迫ってくる。「あら元気ねえ」とか「あいつまた出ていきよったな」で終わらないから。


『リエゾン -こどものこころ診療所-』第2巻・巻末『監修・三木崇弘インタビュー「コロナ疲れへの処方箋」』より。右上の登場人物が三木崇弘

児童精神科にかかる子の数が増えている
その背景にある社会状況

ー少子化が進んでいるのに児童精神科にかかる子どもの数は増えていると、三木さんの著書『リエゾン -こどものこころ診療所- 凸凹のためのおとなのこころがまえ』にも書かれていましたよね。今の話もそうなのかもしれないですが、他にはどういった要因が考えられますか?

三木 僕は、発達障害は「炙り出し」の要素が強いと思っているので。それこそ音楽業界の方とか、昔の人のワイルドさって今の比ではないじゃないですか。

高木 そうですね(笑)。

三木 そういう人たちの中にたくさん混ざっていたと思うんですけど、「まあそういう人もいるよね」で済んでいたのが、今はやっぱり消毒されている社会というか。そこからちょっとはみ出すと「はい、おかしい」って言われるようになるから、ピックアップする数が増えていると思うんですよね。「まあ別にそういう人やからしゃあないんちゃう?」みたいに社会が許容できなくなっていて、逆に「よくないよね」という圧が強くなって、押し出されるように「問題」と言われることが増えているんでしょうね。子どもがたくさんいると「まあこの子はしょうがない」みたいになっていたと思うんですけど、親のエネルギーと社会のエネルギーが、少ない子どもにぎゅっといっていて、よりちゃんとしたことを求めにいくという構造になっているなとも思います。あとは、個人間の権利のせめぎ合いが強くなっているじゃないですか。迷惑かけられても「お互い様」って、みんなもう思えないというか。「私の権利を侵害してるんで、それはやめてください」みたいな。はみ出し合ったものが、お互いちょっとずつ譲り合うというふうにならない。最近中高大学生の話を聞いてると、とにかく「気まずい」と「自分が迷惑なんじゃないか」っていう、この2つがめちゃくちゃ出てくるんです。

高木 へえ。

三木 人の権利を侵害してはならないという圧を感じながら今まで生きてきたんだろうなと。

高木 俺のときもその予兆はあったけど、結局社会情勢ともリンクしてると思うから、その雰囲気って5年10年とかで変わるんでしょうね。俺らくらいから「空気を読む」みたいな言葉が生まれた気がします。「KY」とかが流行ってて、あれはちょっときつかったですね。

三木 どうやったらいいか誰も教えてくれないけどラインを超えるとアウトって言われる、みたいな恐ろしさがありますよね。

高木 どこがラインかもわからないけど、みたいな。

三木 そうなんですよ。「50回くらいまではオッケー」とかにしてくれたらいいんですけどね。

ー大人の仕事でも感じますもんね。9いいことやっても、1ミスったら「はいダメ」ってされる空気。

高木 Rolling Stoneですか?(笑)

ーいやいや(笑)。この連載のチームは本当にそれがなくて。すごく許してくれる感がある。

高木 うちらの話をすると、俺、かなりいろんなことを許すんです。でもそれは結局、自分が許してほしいことの裏返しで。俺自身が許してほしいことがすごくあるし、だから別に「許してる」という意識もそんなにないんですよね。「誰かができないなら他の誰かがやれたらいいよね」みたいに、とにかく足し引きをうまく組み合わせることを、ざっくりした雰囲気でやれてるから楽しくやらせていただいていて。他のバンドとかを見てると、うちらはよく言えば優しいし、悪く言えばだらしないレベルだと思うんですけど(笑)。だからこの認識がちょっときついなってなる人もいるとは思う。結局、似た者同士で成立してるところもあると思うんですよね。このチームに限らず、生きていると「類は友を呼ぶ」じゃないけど、この家もこの雑多さに落ち着ける人が集まってくるし。結局自分の生きやすさを求めて人間関係は形成されていくから、自分の中では線を引いちゃってるのかなみたいな悩みにも最近気づいてきて。

三木 でもそれ、僕はすごくいいと思うんですよ。自分の居心地のいい環境を自分で作ることを実行されているわけで。ある程度許容する代わりに自分を許してほしいと思ってる人が、結果的に集まっている。そうじゃない人を排除してるわけではなくて、ただ自分が居心地いいからいるっていうだけなので。僕もちょっと潔癖に思うときはあるんですよ。「人に優しく」って言いながら「俺、全然優しくなくない?」みたいに思うこともあるんですけど、でもそれを言い出すと収拾がつかなくなるし、まずは自分が心地いいと思うものがどういうものかをなんとなく考えたり感じたりする中で、結果そういう仲間が集まったのであればそれはそれでええやんって。最初の「俺が許してほしいから」がわからない、あるいは言えない人が多いなと思います。その要求も大事だと思ってて。そう言われた方が、自分も許してって言いやすいじゃないですか。優しくしてほしいから優しくするっていう。

高木 多分、本当はみんなそう思ってるはずですよね。


左から、高木祥太、三木崇弘 Photo by hamaiba(GROUPN), Hair and Make-up by Riku Murata

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