ビートルズの薬物事情:LSDが作ったアルバム『リボルバー』

(Photo by Mark and Colleen Hayward/Redferns)


キャピトル・レコードは、『イエロー・サブマリン(原題:Yellow Submarine)』と『エリナー・リグビー(原題:Eleanor Rigby)』をカップリングし、シングル盤としてリリースした。子供向けの曲としてリリースされた『イエロー・サブマリン』だったが、次第に反戦デモやさまざまな抗議活動に集まる人々の理想を代弁する曲として認知されるようになり、第2位にランクインした(訳註:ビルボード誌順位)。『エリナー・リグビー』は最高11位だった(訳註:ビルボード誌順位)。どちらの曲もナンバー1を逃したが、それはビートルズの音楽性の変化によるものかもしれないし、レノンの発言の影響によるものかもしれない。それでも2曲とも数週間はラジオのトップ40にランクインし続けた。『エリナー・リグビー』の場合は予想を覆すヒットだったかもしれない。この曲は、愛する人も身寄りもなくぼんやりと暮らす孤独な女性と、"誰も寄りつかない"へんぴな場所で誰も聴かない説教をするマッケンジー神父の2人の物語を描いている。物語の最後にエリナーは教会で亡くなり、マッケンジー神父が彼女を埋葬する。「墓から戻る途中で手についた泥をこすり落とす/誰も救われなかった」という最後の歌詞は、ビートルズの曲だけでなくすべてのポピュラー音楽の中でも最もはっとさせられる表現で、ビートルズはクラシカルな弦楽八重奏に乗せて人々の心に印象づけた。『エリナー・リグビー』で描いた物語は、レノンのかつての発言に共通するものがある。「キリスト教を信仰したってたいして癒やされない。結局最後には、孤独な人間や信仰深い人間に救いなんてないんだから。誰もが墓に入り、二度と戻らない。ビートルズ批評家たちの批判もあの世行きさ」。

レノンの宗教発言問題、彼らの楽曲のライブにおける再現性の限界、彼らの一挙手一投足に付きまとう怒りと拍手喝采、それらすべてがその夏のビートルズに降りかかった。危険も間近に感じた。ビートルズのコンサートを控えたメンフィスでは、ローブをまとった秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーのひとりが地元局のインタビューに答え、「我々は有名なテロ集団である。我々には必要とあればコンサートを止めるいかなる方法も手段もある。彼らが会場に現れる月曜の夜には多くのサプライズがあるだろう」とバンドを脅迫した。またその頃ビートルズは、公の場でのパフォーマンスも限界に近づいていると感じていたようだった。ツアーももはや何の楽しみも感じられなかった。1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークでツアーのファイナルを迎え、これがバンドとしての最後のコンサートとなった。イギリスへの空路、ハリスンは「オッケー、これでおしまい。もうビートルズのメンバーではないよ」と告げた。

それから数ヶ月経った1967年1月、マッカートニーのインタビューがバンド解散の可能性を決定づけた。「僕たちは全員、大人になりきれず子供のままだった。だからいくつもの過ちを犯した。僕たちは機械に育てられた訳じゃない。最初から完全に別々の道を歩むこともできた。それが今ようやく、それぞれの道へ歩み出す準備ができたんだ。お互いまた一緒にやりたいって気持ちになったら、やるかもしれない。だけど今、僕はもうマッシュルームカットの4人組のひとりではなくなった」。

このマッカートニーのコメントは、ひとつの策略だった。ビートルズはこの時すでにニューアルバムのレコーディングに入っていた。ただ、メンバーはかつてのような関係でなくなっていたことは事実だった。『リボルバー』での厳しい試練を経験したことで、メンバーは新たな自分と新しい目標を見出すことができた。アメリカツアーを終えてから数ヶ月の間に、マッカートニーはサウンドトラック『ふたりだけの窓(原題:The Family Way)』を制作し、ハリスンはインドで6ヶ月間を家族と過ごした。ハリスンはそこでシタールの第一人者ラヴィ・シャンカールからシタールを学び、ヒンドゥー教の信仰をさらに深めた。リンゴ・スターはスペインのレノンの家に滞在した。レノンが出演した反戦映画『ジョン・レノンの僕の戦争(原題:How I Won the War)』は、この時スペインでも撮影された。この映画の監督は、『ヘルプ!4人はアイドル』と同じリチャード・レスターだった。レノンは、映画撮影は退屈でつまらないものだと感じた。1966年の秋にビートルズが再び集結した時、その容姿もサウンドも別人のように変わっていた。口ひげを生やしたヒッピースタイルで、レノン、マッカートニー、ハリスンが新たな出発にふさわしい楽曲を作った。マッカートニーは、対位法を用いた『シーズ・リーヴィング・ホーム(原題:She’s Leaving Home)』やカオス的なオーケストレーションを採り入れた『ア・デイ・イン・ザ・ライフ(原題:A Day in the Life)』で、壮大なアレンジのセンスを持ち込んだ。普遍的な愛や謙虚さを持つ東洋哲学と、ヒンドゥスタンの伝統音楽へのハリスンの傾倒は、『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー(原題:Within You Without You)』という形で実を結んだ。

レノンがスペイン滞在時に書き始めた曲が『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー(原題:Strawberry Fields Forever)』だった。この曲はバンドのメンバーやプロデューサーのジョージ・マーティンを最も戸惑わせた。彼らはこの曲をほかにはないポピュラー音楽に仕上げようとしたため、レコーディングに1ヶ月もかかった。しかしこの曲はアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』には収録されず、1967年2月にシングル盤としてリリースされた。このようなセッションから生まれた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はリリースされて間もなく、一部からは"時代遅れ"と揶揄されながらも驚きの変化を見せたビートルズのアーティストとしての集大成であり、かつサイケデリックの象徴である、との評価を受けた。

Translation by Smokva Tokyo

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