JAGATARAのOtoが語る、江戸アケミが残したメッセージとバンドの過去・現在・未来

80年代初頭のじゃがたらを振り返る

―Otoさんにインタビューさせていただくのは2回目なんですよ。前回はTANGOSの1枚目(※)のときだから、25年以上も前になりますが。

※JAGATARAの南流石とOto、元VIBRASTONEの渡辺貴浩、元ミスター・クリスマスの角田敦によって1994年に結成されたユニット。1stアルバム『水田』は94年9月に発売された。

Oto:おお、そうでしたか。

―そのときにもお話したかもしれませんが、僕にとってじゃがたらは人生で一番大事なバンドなんです。ものすごく影響を受けました。

Oto:(初めて聴いたのは)いくつくらいのとき?

―18か19のとき、通っていたデザイン専門学校の帰りにお茶の水のディスクユニオンで「LAST TANGO IN JUKU」を買ったのがきっかけでしたね。1981年のことです。


1981年に「財団法人じゃがたら」名義でリリースされた1stシングル「LAST TANGO IN JUKU c/w Hay Say!!」。翌年の1stアルバム『南蛮渡来』(「暗黒大陸じゃがたら」名義)に「タンゴ」と改題して再録された。シングル版は『Best Of Jagatara - 西暦2000年分の反省』に収録。

Oto:へえ~。逆に僕が訊きたいんだけど、そのときどんな印象を持ったの?

―その頃は国内のバンドの自主制作盤をいろいろ買って聴いていたんですよ。ザ・スターリンの『スターリニズム』とか、AUTO-MODの「LOVE GENERATION」とか、BANANARIANS、NON BAND、東京ROCKERS関連とか。それらを片っ端からテープに入れて聴いていたんですが、じゃがたらの「タンゴ」(LAST TANGO IN JUKU)と「Hey Say!!」はほかとは異質の耳残り感があって、結局その2曲ばかり何度も繰り返すようになった。何が異質だったのかとあとで考えると、リズムなんですよね。その頃はどちらかというとパンクっぽい音が好きだったけど、じゃがたらはヨコノリで、ファンクで、思い返すとそのとき僕は初めてグルーヴのある音楽に惹かれるようになったんです。

Oto:まだ僕がじゃがたらに入る前の話なんだけど、新宿のハバナムーン(ゴールデン街にあったバー。バンドマンが多数出入りしていた)で友達と飲んでいたら、そこに「LAST TANGO IN JUKU」が置いてあって。初めて聴いたとき、やっぱりドラムとベースのインパクトがすごい強かったんですよ。このドラムとベースは素晴らしいなと思って、そこがもう、いま内本さんが言ったように、ほかのバンドとは違っていたところ。当時は会うひとみんながパンクの話をしていたけど、『DOLL』とかそういう雑誌で話題になっていたバンドとじゃがたらでは、音楽のなかに入っているソースが全然違っていた。

―そうですね。

Oto:僕が「LAST TANGO IN JUKU」に出会う前に、じゃがたらが「11PM」で紹介されたことがあってね。今野雄二さんがサブカルチャーを紹介するコーナーで、そこでは音楽の中身よりもエログロなパフォーマンスで話題になっているバンドがあるっていう紹介のされ方をしていて。『DOLL』に載っていたアケミのインタビューを読んでも、流血パフォーマンスについて「プロレスみたいなライブをやりたかった」とか言ってるから、「いやいや、プロレスはそんな甘いもんじゃないだろ」って否定的な印象を抱いていたんです。だけどそのあとに「LAST TANGO IN JUKU」を聴いて、ぶっとんだ。その頃、僕がずっとやっていきたいバンド像として、エキゾチック・ミュージックというのがあったんですけど。

―マーティン・デニーとか?

Oto:きっかけはマーティン・デニーとかだったけど、「実はローリング・ストーンズだってエキゾチック・ミュージックじゃないか。あれもミクスチャーじゃないか」という聴き方があって。自分のなかで音楽の聴き方がちょっと開かれた時でした。まあストーンズはブルースやソウルなど黒人音楽とロックのミクスチャーだけど、僕の場合はもうちょっとこう、いろんな島の音楽が好きで、バンドにしても5人編成とかじゃなくてキーボードやブラスが入ってるものも好きだったんですよ。

で、バンドの魅力のひとつに長く続けていくことのよさがあると思っていたので、じゃあ長く続けていくには、そういう考え方が合うひとじゃないと難しいだろうなと思っていたんです。そんなときに「LAST TANGO IN JUKU」と出会った。レゲエのフィーリングを持ったドラムとベースなのに、ギターのアプローチは70年代的なロックで……あの頃アケミは南部ロックとか土臭いロックが好きだったからね。そこにフリーキーなサックスのアプローチも加わっていて、アケミの歌い方には独特なパンク感があった。それですごく関心を持ったんです。とりわけドラムに。その頃の僕はレヴォリューショナリーズが大好きで。あと、フェラ・クティも。だからレヴォリューショナリーズごっことフェラ・クティごっこができるドラマーがどっかにいないかなって思ってたんだけど、まあそんなことでとにかくじゃがたらのライブを一度観てみようと、渋谷の屋根裏に観に行ったんです。

そこではもうエログロなパフォーマンスなんてやってなくて、ひたむきに音楽をやっていた。で、やっぱりドラムとベースが僕にはすごく印象的で。それとあの頃はギャング・オブ・フォーとかポップ・グループとかリップ・リグ&パニックなんかも好きだったんだけど、そういう匂いもライブに感じた。そのライブが終わって一番話しやすかったのがドラムのウメちゃんで、話したら家も近かったから、お互いの家を行き来するようになって。ウメちゃんもレヴォリューショナリーズとフェラ・クティが好きだったので「こういう音楽作れないかな」みたいな話をしているなか、「アケミに話してみるよ」ってウメちゃんが言ってくれて、それで初めて「じゃがスタ」(渋谷区松濤の雑居ビルの屋上にあった、じゃがたら専用のスタジオ)でセッションすることになったんです。そのときはレゲエのダブの遊びを延々とやってましたね。

―ウメちゃんは、Otoさんがじゃがたらに入る前にバンドをやめられたんですよね。

Oto:そうなんですよ。だからウメちゃんと一緒にライブをすることは叶わなかったんだけど。


レヴォリューショナリーズは数多くのレゲエ名曲が録音されたジャマイカのスタジオ「チャンネル・ワン」にて、スライ&ロビーを中心に結成されたハウス・バンド


リップ・リグ&パニック、ドン・チェリーとネナ・チェリーが参加した83年の東京公演

―ちなみに僕が初めてじゃがたらのライブを観たのは、82年4月4日に代々木公園の特設ステージで行なわれた『反核ライブ』でした。『南蛮渡来』が出るよりも前。

Oto:それ、ビデオ(『ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA』)に入ってるよね。

―入ってましたね。そのときに僕、カメラを持ってたので写真も撮ったんですよ。これなんですけど……。

Oto:おおっ。これはやばい。



Photo by Junichi Uchimoto

―じゃがたらガールズがコーラスをしていて。

Oto:これ、「ジャンキー・ティーチャー」の歌詞を書いているうさぎ(83年の映画『神田川淫乱戦争』に主演した女優・麻生うさぎ)ですよ。うさぎはじゃがたらが好きでP・C・E&Cというグループを始めて、リップ・リグ&パニックみたいな編集的な構成の曲の作り方をしていたんですけど、僕はその頃ダブをやりたかったので、P・C・E&Cのライブにミキサーで参加してダブディレイをやってたんです。うさぎ、可愛かったんだよなぁ。

―このときに初めてじゃがたらを観て何に驚いたかというと、江戸さん、ステージの上で歌っていたかと思うと、バンドがインプロっぽく演奏しているときにはこうやって(下掲の写真のように)下に降りて、客に混ざってステージを観てたりしてるんですよ。それまで僕は、演者はずっとステージ上にいるのが当たり前だと思っていたんですけど。

Oto:はははは。



Photo by Junichi Uchimoto

―これが僕の初めてのじゃがたらライブ体験で、その後83年の日比谷野音の「天国注射の昼」も観て。そして85年の「アース・ビート伝説」を野音の外で聴き、江戸さんが本格復帰した86年に当時まだ六本木にあったインクスティックで観て以降は、行けるライブは必ず行くようになりました。全員揃いの赤いジャケットでやるようになった六本木インクやフジテレビの「ライブ・ジャック」(86年)の公開収録に始まり、89年の活動停止までずっと追いかけるようにして観ていたんです。

Oto:そうだったんだぁ。

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