JAGATARAのOtoが語る、江戸アケミが残したメッセージとバンドの過去・現在・未来

江戸アケミには、歌わなければならない歌があった

―それから、今回のライブにはたくさんのひとがゲスト・ヴォーカルという形で参加したわけですが、そのうちの何人かが自分の言葉をじゃがたらの歌に加えて歌っていたのが印象的でした。Nobuさん(桑原延享)は「FADE OUT」に自分で書いた歌詞を足して歌っていたし。こだま和文さんは「ある平凡な男の一日」の最後のほうに“大切な日々の暮らし。誰にもおびやかされない日々の暮らし。生きていること”といった言葉を加えていた。

Oto:ね。向井(秀徳)くんも「つながった世界」のなかで“繰り返される諸行無常”って言ってたし、不破(大輔)さんも詞に自分の思いを重ねたベースソロっていうのがあったし。

―「みちくさ」のいとうせいこうさんのラップもそうですが、そんなふうに自分の言葉や音をじゃがたらの歌に乗せていて、その結果としてその歌はそのひとの歌にもなっていたし、2020年のいまの歌にもなっていた。そこが素晴らしいなと思ったんです。で、江戸さんの書く歌詞には、もともとそういう特性が備わっていたんだなとも思ったんですよ。

Oto:アケミが詞を書いてきて、見せてもらうと、ちょっと言い方が曖昧だな、これって何を指しているのかなって思うところがあって。僕が訊くと、「いや、それはひとつのことに限定して言いたいわけじゃないから」って言うわけですよ。「限定させないように書くのがなかなか難しいんだよ」って。

―説明を嫌うひとでしたからね。

Oto:そう。「ひとつのことを、そのひとなりに受け取れるように伝える、そんな言葉の選び方をするのが難しいわけよ」とか言っててね。「じゃあ、それは具体的なことではないんだね?」って訊くと、「オレのなかでの具体的なことであったとしても、それをそのまま伝えると狭くなるから」って言ってた。つまりアケミの意図は、受け手がそれぞれの受け取り方を自由にできるようにすることであって。例えば“オレは決して忘れはしない あの日のすべての出来事を”(「都市生活者の夜」)ってあって、「アケミ、“あの日のすべての出来事”っていうのは、どういうすべて?」って訊くと、「すべてはひとそれぞれで違うだろ。だから具体的にすることはないんだ」というような答えが返ってきましたね。


渋谷クラブクアトロ入口に貼られたJAGATARA『それから』のポスターと江戸アケミの写真(Photo by 西岡浩記)

―だから今回出演された方たちも、それぞれが自分の受け取り方で曲のメッセージを受け取って、自分の言葉のように歌えていたんでしょうね。

Oto:うん。思うんだけど、例えば清志郎さんの歌だったら言ってることがすごく具体的でわかりやすくて、身近な感じで受け取れる。だからひとつの歌を多くのひとが聴いたときに、受け取り方にそれほど誤差が生じない気がするんです。それは清志郎さんの、思ったまんまを伝えるというやり方だったと思うんですけど、アケミが伝えたいのはそもそもそういう個人的な何かへの思いとか解釈とかじゃなくて。もっと言うなら、巨悪のシステムに対しながらどうやって自分らしく生きられるか。それこそ「おまえはおまえのロックンロールをやれ」「おまえはおまえの踊りを踊れ」じゃないけど、いかにそのひとらしく生きることができるかっていうメッセージなんですよね。そうすると言い方も個別のことではなくなっていく。だから、あるときには「オレは別に歌にしたいことなんてないんだよ」と言ってて。

―言ってましたね。

Oto:それは、自分の歌は私小説的なものではない、あるいは具体的な社会批判ではないって意味でそう言ってたわけでね。逆に言うなら、個人的に歌いたいことは別にないけど、歌わなければならない歌がある、っていうことだったと思うんですよ。実際に歌を聴くと、本当にそういうものがほとんどで。巨悪のシステムはアケミにとって「闇」だったり、希望は「光」だったりと、極めてシンプルな言葉遣いをしているんだけど、それをどう選びとってどう歌にするのか。アケミはそこをちゃんとやっていた。闇と太陽と光はアケミのなかですごく大きくて、そのなかでいろんな情景が出てくるんですよね。

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