ヴァクシーンズが語る衝撃のデビュー作とバンドの10年史、分断の時代に鳴らす「Love」

最新作『Back in Love City』のコンセプト

―新作『Back in Love City』はリスナーに驚きを与えるという意味では、デイヴ・フリッドマンと組んだ『English Graffiti』に匹敵する、いやそれ以上に挑戦的な作品だと感じました。まず、5月に出たリード・ソング「Headphone Baby」のスペーシ―なディスコ・ポップ路線には個人的にも最高に上がったんですが、あの曲へのファンからの反応には「してやったり」だったんじゃないですか?

フレディ:反応は上々だと思ってるよ。ディスコ・ポップって表現も悪くないよね。でも、ヴァクシーンズのサウンドはジャンルとして一括りにはできないと思っていて。自分としては、いまだにヴァクシーンズらしいサウンドとはなにかというのを模索中なんだ。人々のリアクションや解釈もそうだけど、自分たちですらコントロールできない面が結果として音につながっているしね。この作品を作るにあたって、はじめは様々な場所のカントリー・ミュージックをモチーフにしていたんだ。メキシコの音楽を聴き込んだり、テキサスのカウボーイだとか、そういったもっと田舎の土っぽさのあるような。でもそこから練り上げて行って、たどり着いた先がまったく別の場所だった。自分にとってレコードを作るときのベストなアプローチは、柔軟に自分を緩めること。フォーカスしながら、ルース(緩める)するんだ。凝り固まらず、いろいろな視点を取り入れられるようにね。だから、この曲がスペーシー・ディスコ・ポップだと解釈されるのも、素晴らしいことだよ。もし自分でこの曲を表現するとしたら、ディストピアン・シネマティック・ディスコ・ロックンロールかな(笑)。



―「Headphone Baby」はどんな風に出来上がった曲なんですか?

フレディ:たしか友人でもあるウィル・ブルームフィールドと作りはじめたんじゃなかったかな。これまでの作品にも参加してくれてるし、付き合いは長いけど、ぼくらはまだ1度も同じ部屋で一緒に制作をしたことはないんだよね。お互いにアイデアのサンプルを送り合って、作業が進んでいく感じ。この曲は最初はポップ・ソングだったけど、『Back in Love City』のコンテクストであるウエスタン・カウボーイ的な要素のなかでこねくり回しているうちにこういった形になったんだ。完成したサウンドを聴くと驚かれるかもしれないけど、実際にはそういった文脈があると思って聴くと、納得してもらえる部分があると思う。

―あなたたちのSpotifyのプレイリスト「HEADPHONES BABY」を、この曲や新作を読み解くサブテキストとして興味深く聴きました。幅広い年代の曲が入っていますが、どれもムードやテンションは通じているような気がします。MGMTやバグルスと並んで、CHAIの曲も入っていますね。

フレディ:このプレイリストではぼく自身が聴いて選んでないから、CHAIについては残念ながらコメントできないんだけど、ぼく個人としては、インターナショナル・ミュージックにすごく興味があるよ。最近もロンドンで日本のミュージシャンと仲良くなって、曲を作ってみたりだとかしているんだ。日本の音楽、もちろんK-POPだとか、ロンドンでもだんだん市場が大きくなっているのを肌で感じるし、それぞれの音楽の構造が明らかに異なることもすごく興味深いね。自分にとっては本当に新鮮に聴こえるから。



―プレイリストを聴いて、新作のキーワードは「ダンス」、そして「ポップ」なのかなと予想したんです。これら2つのキーワードは、実際に念頭にあったものですか?

フレディ:例えば今回の作品と、ケイシー・マスグレイヴスやダフト・パンク、ブライアン・セッツァー・オーケストラを「ポップ」や「ダンス」として一括りに並べて語っていいのかというとまた違うんだろうし、なにを「ポップ」だと定義するかによって話は変わってくるけど、「現行のポップミュージック」というのは、現状すべての音楽の中で1番おもしろいジャンルだと言ってもいいのかもしれない。たとえばモーツァルトの楽曲だって、言ってみれば驚くほどにポップなんだ。でもメロディラインは突拍子もなくブッ飛んでいて……(「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のメロディを口ずさんで)だってこんなのバカげてるじゃないか。理解が追いつかない。それでも、ポップミュージックというは常にカルチャーの第一線で、その変化に直面してきた。その変遷を辿るだけでも面白いことだよね。そういう意味では今回の作品は、現行の「ポップ」というキーワードには当てはまると思う。

―ダンサブルでポップな音楽こそが、いまの世の中に必要だと考えますか?

フレディ:特に「今だから」必要だ、という風には思っていないよ。ダンスミュージックは本来マインドレスなもので、どちらかというと 「踊らせる」ために存在していたはず。でも我々は進化を繰り返してきた先にいる驚くほどに知的な生き物だから、遺伝子レベルで何がいいか悪いかというのをきちんを「解っている」んだと思う。Spotifyをはじめ、このストリーミングサービス全盛期において、オーディエンスは「城」みたいな存在だと思う。統計が可視化されていて、人々が本当にいい音楽を聴いているということがわかるから。音楽において忘れては行けないのはオーディエンスに対しての敬意、そしてもっとも重要なのはエンパワーメントだと思う。人々が危機に面している時に本当に必要なのは、辛い気持ちをケアして寄り添えるようなパワー。その時にただ「さあ体を動かせ! みんなハッピー!」なんていう押し付けることは、ある種、横暴でもある。だからこそ、オーディエンスをリスペクトするということが本当に必要なことなんだと思う。


Photo by Frank Fieber

―今作は「Love City」に帰還するところからはじまります。そもそも「Love City」とはどんな街なのでしょうか?

フレディ:「Love City」はあくまでメタファーなんだけど、メタファーのよさというのはその世界に入り込むことができること。だからこそ、ある種の思想を人間に伝達するために、ぼくらはストーリーを使って、人々はそれを擬似的な経験値とすることができる。「Love City」の軸となるメタファーは、人々が痛みを忘れるために、逃げ込むことができる場所。もしくは即座に「Love」にプラグインすることができて、実際に起きている悪いこととは全く無関係なところ。いわば、ドラッグみたいなものだよ。現在ドラッグやアルコールは人々の逃避のためのツールとして用いられているけど、「Love City」はそれになりかわるもの。そこではインターネットで買い物するのと同じくらい簡単に「Love」が手に入る。今日は気分が良くないな、だったら「Love」を補給しようってノリでね。

ぼくらは毎日ある種の愛を求めて、毎日4〜5種ものSNSをチェックしたり、虚構の世界の中でばかり遅れを取らないよう必死で、現実の中での「今」をちゃんと生きれていない。そんな逃避が必要なこの世の中で、濃縮された未来のドラッグのようなもの。それがぼくにとっての「Love City」。ほかの誰かにとってはまた全然違った解釈になりうるだろうけどね。

―いまの我々が暮らす多くの場所は「Loveless City」となっていると言えますか?

フレディ:その通りだよ。だって「Love」は動詞だから。「Love」はあくまで言葉であって、不変じゃないし、アクションだから。ぼくらはもともと利他的な種で、助け合い、愛し合うことを心地よく感じるはずなのに、昨今はそのカルチャーがおぼろげになり、失われつつある。だからこそ、ぼくらがいずれ「Love」を気軽に買うことができるようになったなら、買えない人には何が起こるだろうね? 自分はそれについて、この先考えてみたいと思う。愛を滅ぼすことはできない、でもカルチャーの分断が起きていて、人々の溝は深まるばかり。思慮に欠けて、人に不幸を押し付けるような人たちがいて、その一方で、そんな現状に変化を起こすべく立ち上がっているすばらしい人たちもいて……やっぱり完全に分断されているように感じるんだ。

―我々はふたたび街に愛を取り戻せると思いますか?

フレディ:それはもちろんさ! でもぼくらはまず状況を変えるために、健全な精神を取り戻さないといけないよね。なによりバランスを取ることが重要だと思う。突然お金に恵まれた人が、心を病んだりもするんだから。もちろんこの作品も、愛を取り戻すための助けになるといいと思うよ、すべてのすばらしいアート作品がそうであるようにね。そういった力のあるアートは、ぼくたちに本当は何が重要なのかということを感じさせてくれる。幼い子どものときのように、エゴにまみれていない純粋な部分に触れてきてくれるから。ロックダウン期間でなにが1番ツラかったかって、食べる、適度なエクササイズ、働く、眠る、というローテーション以外のことを許されていなかったことだよ。それだけがぼくらが生きるのに必要なことだと決めつけられていた。ぼくらが生きる活力を見出すためには、いいアルバムであれ、アートであれ、映画であれ、ダンスであれ、「それ以外のなにか」が絶対に必要なんだ。

Translated by bacteria_kun

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