マイ・ケミカル・ロマンス、2001年のバンド誕生秘話

ジェラルドのアクシデント

アマチュアならではのエネルギーは偶発的な楽曲を数多く生み出したが、ルウィティンが母親の車で現場に到着した時、彼女はマネージャーとして初めて危機的状況に直面する。シンガーのジェラルドはその日、本来の実力を発揮できずにいた。「スタッフがこう言ってた。『ジェラルドの歌が録れてない。耳の調子が良くなくて、気分も悪いらしいんだ。予算が限られてるから、1日たりとも無駄にするわけにはいかないのに』」。彼女はそう振り返る。「私は一文なしで、スタジオの利用を延長する余裕はなかった」

「彼は耳が痛むらしくて、頭痛もすると言ってた」とSaavedraは話す。「何が原因なのか、俺らにはまるで見当がつかなかった。彼は相当痛がってたけど、なんとしてもレコードを完成させないといけなかった。救急救命室にも何度か連れて行ったけど、その度に『どこも悪くない』と言われたんだ」

「私は車に戻って、母さんにアドバイスを求めた」。ルウィティンはそう話す。「彼女はこう言った。『ジェラルドを連れて来なさい。今すぐ病院に行かないと』。病院に着くとすぐ、母はスタッフにこう言ったの。『今すぐこの子を診てあげて! 彼はレコーディングの真っ只中で、一刻も早く戻らなくちゃいけないの』。結局彼には根管治療か歯の治療が必要だったんだけど、母さんはジェラルドの治療が終わるまで病院でずっと待ってた。それ以来、55歳のエジプト人の私の母さんは、すっかり彼に入れ込んでしまったの」

ウェイの腫れ上がった顎は、スタジオでとあるマジックを起こした。彼が感じていた痛みは治療後にさらに増し、感情のこもっていないボーカルテイクは説得力に欠けた。「俺はジェラルドのパフォーマンスに納得がいかなかった」とリックリィは話す。「だから痛み止めを隠して、ジェラルドに薬なしでレコーディングしろって言った」

ウェイの薬を取り上げ、必死に説得を試みても成果がなかったため、Saavedraは奥の手を使った。「やつの顔面を思いっきり殴ったんだ」と彼は話す。「一発でK.O.したと思う。あいつは気が動転してたよ。今思えばいかにも体育会系なやり方だけど、あの時は他に手がなかった。でもあれは、あいつのマゾヒストとしての一面を刺激したんだ。もちろん痛かっただろうけど、あの一撃があいつを奮い立たせたのは間違いない。そういう痛みもあるってことだよ。その直後に、あいつは最高のボーカルテイクを録ったんだから」

Saavedraのパンチの効果は、ウェイのパフォーマンスを改善させただけではなかった。その一撃によって、ウェイはマイ・ケミカル・ロマンスに不可欠な概念を頭に刻み込んだ。ウェイが学んだのは、人は時として痛みと向き合う必要があるということだった。

ルウィティンは若く経験不足だったが、がむしゃらに動く彼女は若手のバンドにとっては有用なマネージャーだった。彼女はマンハッタンで一晩に行われた3つのギグを通じて人脈を築き、ネット上で音楽ゴシップを拡散した。正式にバンドのマネージャーになるとすぐ、ネットワーク力に長けた彼女はパソコンのキーボードでバンドの魅力を発信し始めた。彼女はデモ音源をAtlantic RecordsのA&Rや、SPINやNMEに寄稿する友人に送った。さらに、彼女はサーズデイの掲示板にバンドのことを書き込み、無数のテイストメーカーたちにメッセージを送った。その甲斐あってバンドの知名度は徐々に上昇し、A&Rの目につきやすいHits Daily Doubleにも取り上げられた。その頃から業界のあちこちでバンドのことが話題に上るようになり、彼女はもはやバンドの宣伝をして回る必要はなく、いつしかアプローチされる側になっていた。

「レコード会社の人間からしょっちゅう電話がかかってくるようになった」とルウィティンは話す。「Loop Loungeでのバンドのライブを見るために、多くの人が飛行機でニューヨークまで来てた。Island Def Jamのロブ・スティーヴンソンが、サーズデイを発掘した社内のライバルに対抗するために、マイ・ケミカル・ロマンスと契約を交わしたいと申し出るくらいだったの。驚くほどのスピードで、状況が一変しつつあった」

インターネットを通じてバンドのことを知ったのは、業界の人間だけではなかった。バンドのメンバー、特にSidekickブラウザの虜だったマイキー・ウェイは、インターネットの使い道に関して天才的な嗅覚を備えており、オンラインで集まっている新しいファンを確実に取り込んでいった。TheNJSceneを含むローカルの掲示板、あるいはFriendsterやLive- Journal、オルタナカルチャー好きの巣窟MakeoutclubといったSNSでは、バンドのことが頻繁に話題に上っていた。マイ・ケミカル・ロマンスの名前は口コミという昔ながらの方法で広まったが、その速度はインターネットの普及前とは比較にならなかった。

「マイキーはインターネットの申し子だった」とルウィティンは話す。「バンドにとって、インターネットが果たした役割は決定的だった。誰もがオンラインで彼らのことを発見してたから。バンドのウェブサイトにはEPの音源がアップされてて、曲やその一部を自由にダウンロードすることができた。彼らの曲をデジタルな方法で広めるあらゆる機会を、私たちはフルに活用したわ。ライブ会場で物販を担当していた私は、客にウェブサイトのURLを書いたチラシを渡したり、メーリングリストに登録してもらうようにしてた。ニュースレターの作成と送信は私の役目だったの」

Translated by Masaaki Yoshida

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