マイ・ケミカル・ロマンス、2001年のバンド誕生秘話

マネージャーの功績

2002年7月23日に1stアルバム『I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love』がEyeball Recordsからリリースされた時点で、マイ・ケミカル・ロマンスは既にあらゆるレコード会社から注目されていた。「あちこちのレーベルから電話がかかってきて、私はバンドとA&Rのミーティングをいくつもアレンジした。放っておいても話があっという間に進んでいく、そんな状況だったの」

「ある日、バンド側からミーティングをしたいと言われた」。彼女はこう続ける。「こう言われたの。『君は素晴らしく有能だし、バンドのためにしてくれたあらゆることに感謝してるけど、正直俺たちはついていけないんだ。展開があまりに早すぎる。君は俺たちをビッグにしようと頑張ってくれているけど、俺らにはまだその準備ができていない。パンクバンドである俺たちには下積みが必要で、近道はしたくないんだ』。やり手すぎるからっていうのは、解雇の理由としては申し分ないのかもね。寝耳に水だったけど、腹を立てたりはしなかった。彼らのヴィジョンとゴールを尊重すべきだと思ったから。マイキーと別れた時と同じように、私は何かしらの形でバンドのことをサポートし続けたかった。だから私がSPINで働き始めた時、彼らに関する記事は全部任せてもらうよう頼んだの」

「当時の俺は、サラはバンドのマネージャーとして適任じゃないと思ってた」。リックリィはそう話す。「でも今となっては、彼女がバンドに与えた影響は大きかったと思う。バンドの中性的あるいは女性的な側面を大事にするっていうのは、彼女が強く主張したことだった。バンドの成功に対する彼女の功績は軽んじられるべきじゃない」

ルウィティンが解雇された後も、バンドの元には様々なオファーが舞い込んだ。アルバムリリース直後の8月、近隣のペンシルバニア州アレンタウンで行なわれるジュリアナ・セオリーとジミー・イート・ワールドのコンサートで前座を務めるこ予定だったコヒード&カンブリアが急遽出演をキャンセルしたため、ピンチヒッターとしてマイ・ケミカル・ロマンスが指名された。だが、そのショーの規模はあまりに大きかった。大ブレイクを果たしばかりだったジミー・イート・ワールドは、巨大なベニューをソールドアウトできるほどの人気を誇っていた。2枚のアルバムのセールス不振を理由にCapitol Recordsから契約を打ち切られたアリゾナ出身の彼らは、制作費用を自己負担する形で『Bleed American』を完成させた。その親しみやすさは疑いようがなく、各レーベルは再び彼らに関心を示し始める。「いい出来だっていう噂が口コミで広がっていたんだ」。そう話すのはバンドのドラマー、ザック・リンドだ。「Hollywood Records、MCA、Sire、Atlanticが契約を申し出ていた。Capitolさえも改めてアプローチしてきたよ、遅れをとるまいと言わんばかりにね」。彼らの元を訪ねてくる人が後を絶たないため、プロデューサーのマーク・トロンビーノはスタジオの扉に鍵をかけるようになった。争奪戦に勝利したDreamsWorksは、キャッチーこの上ないフックが魅力のシングル「The Middle」がラジオチャートのトップ40入りを果たしたことで、バンドへの投資を早々に回収した。同曲はビルボードのトップ5に入り、アレンタウンでのコンサートが開催される8月に、『Bleed American』はプラチナディスクに認定された。

「あれが(マイケミにとって)最初のブレイクだった。当時、ジミー・イート・ワールドは超ビッグだったんだ」とSaavedraは話す。駐車場に車を入れながら、メンバーは会場の規模に唖然とすると同時に、他のバンドの巨大なツアーバスと並んだ自分たちのレンタルヴァンの安っぽさに愕然とした。「メンバーがステージマネージャーから『ステージプロットはあるか?』って聞かれて、『あぁ、ちょっと待ってて』って言って楽屋に戻ったんだけど、みんな『ええと……何それ?』って感じでさ。当時の彼らは右も左も分からなかったんだよ。小さなホールやホーボーケンのMaxwell’sとかでしか演奏したことがなくて、あんなデカいステージは初めてだった。ステージプロットなんて言葉は聞いたことさえなかったんだよ」

Translated by Masaaki Yoshida

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