ニック・ロウ物語 パブロックの先駆者が振り返る「長く奇妙で最高のキャリア」

 
両親のこと、ブリンズリー・シュウォーツという原点

翌日の午後、ロウが再びドライブを提案した。今回の目的地は、彼にとって個人的に意味のある場所というべきイギリス空軍博物館。それは、かつての飛行場にあった格納庫を再利用したものだった。ロウの父親ジェフリー・ドレイン・ロウは、第2次世界大戦中パイロットとしてドイツ爆撃を遂行し、イギリス空軍中佐にまで昇格した。彼はまた、現在博物館が設置されている飛行場ヘンドンで行われた航空ショーに出演したことがあった。年配女性に変装した彼は、しばしば観衆の中から飛び出てきて飛行機に飛び乗り、アクロバット飛行を始めるのだった。「かなりの酒を食らっていたそうだよ、後に父親が語ってくれたところによれば」ロウは言う。

ロウは、カッコいい親父の出立ちを具現化するのと同じように、別の親父モードにも容易く変身できる—-間抜けでわざとイラつかせる親父、例えば、大袈裟なアクセントや手振りで話を盛るような。あるいは、ここイギリス航空博物館でならば、第2次世界大戦マニアでヒストリー・チャンネル好きの親父がちょっとした講義をしたくてうずうずしているような。我々はチャスタイズ作戦と呼ばれる攻撃が行われた日に偶然訪れていた。それは、軍事作戦としては極めて英国的な名称であることに加え、ドイツのダムを破壊してルール渓谷を氾濫させることができる特殊な反跳爆弾が使用された作戦だった。ロウは、折り畳み椅子に座ってその話題に関するトークを聞く高齢者団体の前でしばし立ち止まると、やがてこの作戦に関する彼独自の詳細な説明を私の耳元で囁き始めた。

新たな曲を書こうとする際、しばしばロウはこの博物館を訪れ、ぶらぶらと歩き回り、格調高いいにしえの戦闘機を眺めるのだった。「親父はこれらに乗って勢いよく飛び立ったんだ」ロウはそう言って、輝くプロペラを有するホーカーハート爆撃機の前で立ち止まる。今なお男子学生のように感嘆しているかのようだ。「誇るべきことは何もないよ。彼からは何も聞き出すことができなかったんだ」。校外学習に来ていた本物の学童の一団がロウの前を通り過ぎる。彼に気づくことなく。

ロウの母パトリシアはショウビジネス一家の生まれで、家族はウェストエンド版ヴォードヴィルともいうべき英国大衆演芸場の演者だった。皿回しや曲芸犬といったものの世界だ。彼女の母親はダンサー、父親はピアノの神童で、(冗談抜きに)「the Dudevenile(ぞっとするような奴)」という名で知られていた。「まさに身の毛もよだつヴィクトリア様式さ」ロウは言う。「家族は彼をサーキットに帯同し、母は彼に常に半ズボンを履かせていた。大人になってもね。まるでAC/DCの奴みたいに! それが原因で彼は酒に溺れるようになったんだ」。

パトリシアは歌手(ローズマリー・クルーニーのようなスタイル)だったが、彼女のキャリアは戦争に妨げられた。婦人補助空軍に勤務していた際、飛行機の車輪で用を足すパイロットに対して忠告する上層部からの通達が、パトリシアを刺激してこの件について歌ったコミック・ソングを書かせることとなり、それが彼女をロウの父親と引き合わせた。「この曲は物議を醸し、彼女は呼び出され、当時飛行中隊隊長だった親父から厳しい叱責を受けた」ロウが言う。「でも、彼はその曲をとても面白いと思っていたんだ」。

ロウはヨルダンやキプロスの軍事基地で育った(彼は、ヨルダンのアンマンで若き日のフセイン国王とミニカーで遊んだことを記憶している。彼はロウの父親を気に入り、最新のスポーツカーに乗ってしばしば彼らの家を訪れていた)。子供の頃ロウはウクレレを持っていて、母は彼にいくつかのコードを教え、彼女のレコード・コレクションへと関心を向けさせた。フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ペギー・リー、そしてロウのお気に入りの、信じられないほど魅惑的なテネシー・アーニー・フォード。彼はフォードの「Fatback Louisiana, U.S.A.」を独学で音声から覚えた。「まるでフランス語か何かのように聞こえたんだ。何が歌われているか分からなかったよ。歌詞は“あらゆる家がリッツというわけじゃないけど、お腹が空いた時は便利だ、だって食べ物でできているからね”といった感じだった。僕は思った、おぉ!“薬の代わりに黒目豆を摂る”だと。胸がむかむかするような響きの食べ物の歌なんだ」。

ロウは、英国中産階級によく見られる傾向の一つであるが、生来的な自己消失と多大な自信とを、そのいずれの人格的特徴も優位になることがないままで、融合させる才能を有している。彼は生粋の話し上手だが、彼自身もそれを自覚しており、それが彼に紆余曲折があり脱線もする25分の逸話をためらうことなく始めさせ、それは必ず華々しい形で実を結ぶのだ。そして同時に、それらの物語のほとんどが意図的にロウを貶め、彼をジョークのネタにすることとなる。

彼のミュージシャンとしての原点の物語をしよう。 それは、ロウがイングランドはサフォークの寄宿学校に送り込まれるところから始まるのだが、そこで彼は、1963年にクラスメートのブリンズリー・シュウォーツとバンドを結成している。ロウがベース担当を買って出ると、木工クラスの友人が彼に一本作ってあげたが、それはペンチでチューニングしなければならない代物だった。バンドは長く続かなかった。卒業時のロウには戦争特派員になるという夢があった。父と話しに基地へとやってくる、壮絶な人生を送る男たちに影響を受けたのだ。だが、地方新聞での刺激的ではない新人の仕事に就くと、彼はそれを続けられないと気づいた—-映画『ラブ・バッグ』のレビューを書くべく派遣されたロウは、上映中に酒を飲んで酔い潰れてしまった——そして代わりに、その時点でキッピントン・ロッジという新たな60年代ポップ・バンドでレコード契約を得ていたシュウォーツに、再び連絡を取った。ロウはバンドに加入し、スタジオで彼らのバックを務めていたスタジオ・ミュージシャンを排除するよう主張した。「僕は言ったんだ。『これで行くべきだ、みんな! 自分たちのレコードでは自分たちで演奏しなきゃいけないんだ。俺たちは一体どんなバンドなんだ?』」。その結果、彼らはセッション・ミュージシャンがいなければ酷い音しか出せないバンドだと判明し、すぐさまレーベルから切られた。



グループは粘り強く活動を続け、ついにはロンドンの話題のクラブで1週間に亘ってイエスの前座を務めるまでとなり、サウンド的にも、ザ・バンドやクロスビー・スティルス&ナッシュといったアメリカの影響源へと向かって変化していき、バンド名もブリンズリー・シュウォーツに改めた。ロウはベースを弾き、リード・ボーカリストになり、曲も作り始めた—-その中には「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love and Understanding」もあった。ブリンズリーズの1970年のデビューを後押しする英国での大々的な宣伝キャンペーン—-そこには、飛行機1台分の英国ジャーナリストをニューヨークへと飛ばし、バンドがヴァン・モリソンやクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの前座として出演して悲惨な結果に終わった、フィルモア・イーストでのショウへと送り込むことも含まれていた——は、完全に裏目に出てしまい、バンドもそれが国民全体の笑いものとなったことを知った(メロディ・メイカー紙によると「史上最大のハッタリ」)。バンドは、パブロックという名で知られることとなったものの勃興によって、二度目のチャンスを手にした。それは、ドクター・フィールグッド、イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズ、The 101’ers(ジョー・ストラマーの最初のグループ)といったバンドが作った短期ながら影響力があったロンドンのシーンであり、肥大し大仰となったプログレッシヴ・ロック時代に対する、歓迎すべき初心に帰る動きを示していた。「まさにパンク・ロックの前触れとなるものだった」ロウは言う。「そこには、他のことには目もくれない変わった奴らがたくさんいたんだ」。

1971年前後のこと、数年に亘るLSD過剰摂取の後、ロウはノイローゼのようなものに苛まれていた。パブロックの歴史本『No Sleep Till Canvey Island』でジャーナリストのウィル・バーチに語っているように。「僕は9カ月もの間、文字通り翻弄されていたんだ……。頭一面にシラミが湧いて、淋病にもかかった。僕はおぞましいヒッピー患者だったよ」。ロウは身なりを整え、髪を切り、LSDからアルコールへと切り替え(70年代初頭、それは解毒法と見なされていた)、勢いを盛り返していたブリンズリー・シュウォーツはパブで演奏するようになっていた。その優れたセンスによって、彼らはすぐさまシーンの寵児となった。彼らは、自作曲にNo.1ヒットのカバーを織り混ぜながら毎週新曲を披露した。リヴァプールの少年デクラン・マクマナス(後のエルヴィス・コステロ)がファンになり、ショウの後にロウのところに恐る恐る自己紹介に来た。「酷い模倣者たちがたくさんいたよ」ロウが白状する。「僕自身もこの表現を使っていた。ドン・ダ・ドン・ダ・ドン・ダ・ドンって鳴らす結構いいブルースなんかに『あぁ、あれはちょっとパブロックだね』って。パブロックと名付けるのは今では侮辱となりうる。でも、そもそもはとても楽しいものだったんだ」。


ニック・ロウとエルヴィス・コステロ、1986年撮影(Photo by ESTATE OF KEITH MORRIS/REDFERNS/GETTY IMAGES)

その活動期間に5枚のアルバムをリリースしてもなお、ブリンズリー・シュウォーツはメインストリームへと足を踏み入れることはできず、1975年にバンドは解散した。 ソロとなり縛られるものがなくなったロウは、ベイ・シティ・ローラーズのことを歌ったノヴェルティ・ソングを作り(日本でヒット!)、ドクター・フィールグッドのローディーとして全米をツアー。サンフランシスコでは、”&ザ・ニュース”が付く以前のヒューイ・ルイスと出会った。当時彼はクローヴァーというバンドのシンガーの一人で、そのレコードがどういうわけだかパブ・ロッカーたちの手に渡っていたのだ。ロウを通じて、クローヴァーの何人かのメンバーはコステロのデビュー・アルバム『My Aim Is True』にバック・バンドとして参加している。

「そんなシーンがあることさえ知らなかったよ」ルイスが筆者に語る。「ニックが僕らのファンだと挨拶してきたから、彼に飛び入りするよう誘ったんだ。あの当時は一晩に4公演やっていたから、出られる奴がいれば誰でも出していた。ニックが言ったんだ。『「Wine and Cigarettes」をやるのはどう?』って。これは、僕らもライブでやったことのない知られざる曲だった。ニックは完璧に演奏したよ。最終的には、彼とバンド全員をボリナスの母親の家に連れて行くまでになったんだ」。

Translated by Masao Ishikawa

 
 
 
 

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