クミコと加藤登紀子が語るシャンソンとフランスの関係、美輪明宏の存在

左から、加藤登紀子、クミコ

音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。

2023年10月の特集は、「クミコと加藤登紀子」。テーマは「シャンソン」。シャンソンというのはどういう音楽なのか。日本のポピュラー・ミュージックにどんな影響を与えてきたのか。5週目はゲストにクミコと加藤登紀子を迎え、辿っていく。

聞かせてよ愛の言葉を / 加藤登紀子

田家秀樹:FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター・田家秀樹です。今流れているのは加藤登紀子さん「聞かせてよ愛の言葉を」。原曲はリュシェンヌ・ボワイエ、2006年の加藤登紀子さんのアルバム『シャントゥーズ TOKIKO~仏蘭西情歌~』からお聴きいただいています。今週の前テーマはこの曲です。今週は最終週ということでなんとお2人を一緒にお招きしております。総括編ですね。お2人で話をする機会はあるんですか?

加藤:ないんですよね。この間訳詩家協会の60周年のコンサートでクミコさんが理事で、私は一応会長なので、それで理事として歌ったんですけど。初めてステージの上でなぜシャンソンだったの?って話をして。これくらいの話すら今までしてこなかったわねみたいなことを言っていたんですね。今日は大変うれしいんです。クミコさんは、初めて会った日のこと覚えてる?

クミコ:覚えてますよ。怖かったですもん。

加藤:え、あの日怖かったの?

クミコ:ビビってました。

加藤:アズナブールがフランス大使館で歓迎会があったときに初めてお会いしたと思います。たしかバルバラの「我が麗しき恋物語」の訳を賀来千香子さんが珍しい訳詩でレコーディングをされたことを私が知っていたかな。とても印象的な出会いでしたけれども。

田家:お2人とも最初からシャンソンに深入りしていたわけではなかった?

クミコ:私は間違って銀巴里入っちゃったので、ずっとなんちゃってシャンソン歌手というふうに自分の中では片付けておりました。

田家:銀巴里のオーディションを受けたときに「サン・トワ・マミー」1曲しか知らなかったという。

加藤:たしかに私のときも、越路吹雪さんブームだったんですね。1960年代半ばは。ロシアレストラン、スンガリーというところが私の音楽の原点で、そこは越路さんを徹底的にかけていたんですよ。ロシア民謡と同時に。コマ劇場のすぐ近くだったので、越路さんもそこに出てらしたり、ピアニストの内藤さんがスンガリーの常連だったりして。そうやって振り返ってみると、根底にシャンソンがなかったとは全然言えないんですけれども、歌手になるつもりは毛頭なくてコンクール受けちゃったという。

クミコ:何を歌われたんですか?

加藤:エディット・ピアフの「メア・キュルパ」です。それを20歳で歌ったのよ。1964年。

クミコ:うわー、絶望感漂う歌ですね。

加藤:恋をしたばかりの私が、世の中の恋なんかより遥かにすごい恋をしてるという想いでいっぱいになったわけ。恋をした人は七つの罪だって全部犯してしまうのよって。

クミコ:フランス語で歌われたんですか?

加藤:コンクールを受けることになったので、日仏会館に通って、つけ刃で3ヶ月でシャンソンの発音ができるようにして。結局、日本語の訳詩に対してはちょっと絶望していたわけよ。誰もこんなすごい詩の訳をやってくれている人はいないので、原曲で歌おうということで20歳の私がエディット・ピアフを歌って蘆原英了さんにあしらわれたわけ。結果的には4位だったんだけど、君ね、お家帰って鏡見てごらん?って。自分の顔がまだ赤ん坊の顔だってことを自覚しなさいって言われて。そんな顔でエディット・ピアフを歌ったって男心動きませんよって。すごいでしょ。私の生涯のいくつかの印象的な瞬間の1つですよね。

Rolling Stone Japan 編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE