クミコと加藤登紀子が語るシャンソンとフランスの関係、美輪明宏の存在

我が麗しき恋物語 / バルバラ

田家:お2人を結びつけていたのがバルバラでした。加藤さんが1回シャンソンから離れたとさっき言っていましたが、シャンソンにハマらなかったのは理由があったんですか?

加藤:歌手になる前はダミヤを、グレコを、モンタンを毎日聴いていましたね。あの頃、英語系の音楽に行く人たちははじめから英語系だった。私たちのときの音楽シーンはヨーロッパ系だったんですよ。その前にちょっとロカビリーとか湯川れい子さんの頃に一斉に英語圏のものが入ってきたんだけど、ちょっとレベルの高い、知的なレベルは完全にフランス派だった。その後にビートルズが来るんですよね。そこからは完全にフランスが離れていく。そこから後音楽に入った人たちはフランスに見向きもしてないです。

田家:クミコさんはビートルズの後も後ですもんね。

加藤:なのになぜシャンソンだったのか興味深いですね。

クミコ:そこに行き着いてしまったという感じですかね。自分たちで作ったような曲を歌える場所がどこにあるの?と思ったら、銀巴里しかなかった。それでシャンソン歌手になっちゃったんですけど、本当は登紀子さんがやられているような流行歌手のようなオリジナルで歌いたかった。

加藤:どっちかと言うとシンガー・ソングライター的なね。

クミコ:それをやりたかったですね。未だにその想いは常にあります。

加藤:映画とかはどうでしたか?

クミコ:やっぱりフランス映画が好きですね。

加藤:ゴダールとか観てた? 『勝手にしやがれ』とか。

クミコ:観ました。

田家:早稲田で演劇やっていたんですもん。

加藤:私も演劇。

クミコ:え、本当ですか!

加藤:私も演劇やってた。仲良かったんですよ、私が入った頃。東大劇研と早稲田の演劇科。

クミコ:文学部の中に演劇科がありましたね。

田家:かなり近いものがありますね。

加藤:やっぱりね。私が東大劇研を辞める最後の劇がウェスカーだったんだけど、その前は圧倒的にサルトルとか、フランスから来たものが演劇の先端をいっていたし映画はゴダールだったから。やっぱりどうしてもフランスを見てたんですよね。

田家:フランスが文化の発信地だった。2人とも演劇をやっていた。演劇からシャンソンに繋がっているというのが、今月の1つのなるほどなあと思ったことでもあります。シャンソンには訳詞が欠かせませんよね。

加藤:私の勝手な解釈だけど、アメリカの音楽はビジネスとして成功する音楽なわけよ。フランスは戦争で負けた国で、ヨーロッパ中が破壊されて蹂躙された歴史を経験した中から出てきたと私は思うんですね。エディット・ピアフが戦後生き抜いたフランス人で、ものすごい勢いでピアフがスターになった。そのときになぜかピアフはアメリカで挑戦しようとするんですよね。アメリカに行かないと全世界のスターになれないというコンプレックスというか、アメリカの方が圧倒的に強かった中でピアフがアメリカに行ったとき、なんだよあんな地味な黒い服なんか着ちゃって、全然ショーマンシップがないじゃないとか酷評されたんですって。それにかちっときたピアフはものすごい勢いでアメリカに挑戦するんですね。それを支えたのがマレーネ・ディートリヒ。ピアフは「バラ色の人生」とかを英語にして歌うんですよね。なんとかしてアメリカを手中に収めようと奮闘した歴史があるって話をしたの。エディット・ピアフでさえも英語で挑戦したというのは私の中に大きな刺激になっていて。伝えたいと思ったらなんとかして言語の壁を乗り越えなきゃねっていうふうに思ってきたので。モンタンにしたってアズナブールにしたってムスタキにした苦い過去があるんですよね。一人ずつの中にあるヒストリーが私はたまらなく好きなんですね。

Rolling Stone Japan 編集部

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