クミコと加藤登紀子が語るシャンソンとフランスの関係、美輪明宏の存在

バラ色の人生 / クミコ

田家:お聴きいただいたのは2007年のクミコさんのアルバム『クミコ meets ピアフ』の中から「バラ色の人生」。エディット・ピアフはアメリカで酷評されて、母国語を捨ててでも自分の歌を理解してほしいと、この『バラ色の人生』を英語で歌った。それが訳詩ということなんでしょうね。その訳詩家協会の会長が加藤登紀子さんで理事がクミコさんです。バトンが引き継がれております。お2人には銀巴里という共通項もあるわけですが、銀巴里と美輪さんということでお話し頂けますか。

加藤:もともと銀巴里と言えば美輪明宏さん。丸山明宏さんだけど、なぜ彼が銀巴里に行ったのか、なぜ彼が銀巴里を守ろうとしたか。ジャズハウスとしてアシベが出てきたときに銀巴里が潰れそうになったんだって。それで大変だっていうので、丸山明宏さんはいろいろ調べたら、フランスでそ女装している男性がすごくうけているというニュースをゲットして、これで勝負しようというのがメケメケだった。メケメケで勝負したときに大センセーションで成功しちゃったの。そしたらそれまで仲良かった中村八大さんとかからそっぽ向かれたんだって。それが自分の中でショックで、真剣にオリジナル曲を書くようになって「ヨイトマケの唄」にたどり着いて、八大さんと一緒にヤマハホールで美輪明宏リサイタルというのを開く。それが私のシャンソンコンクールの頃と一致しているわけ。私のもう1つ、越路さんと美輪さんなんですね。スタートは。

田家:「ヨイトマケの唄」は加藤さんの中ではどういう歌ですか?

加藤:彼のシャンソンと「ヨイトマケの唄」と一気に聴いていて、女装した彼は見てない。着流しの着物でヨイトマケを歌った彼。それでいて、シャンソンを次から次へと自分の訳詩で歌ったのよ。当時「恋は不思議ね」っていう岸洋子さんの大ヒットがあって、美輪さんが「涙の雨にずぶ濡れになって」って歌ったの。びっくりして、こんな大ヒットした歌を勝手に違う訳詩で歌ってもいいのかと思って、その一行を聴いた瞬間、私はぶわーっと別世界に行く。そのくらい印象が強かった。彼の歌う歌の詩の使い方って岩谷さんと全然違うんです、リアリティのあるリアリズムですね。すごかったな。

田家:それに挑戦されている。挑戦という言葉がふさわしいかどうか分からないんですけれども、ご自分で歌っているのがクミコさんで。

クミコ:それはいろいろな方が歌いますからね。

田家:でも女性が歌っているのはあまりないんじゃないですかね。泉谷さんとか桑田さんとか槇原さんとかそういう人はいますけど。

クミコ:あと米良さんとかも歌ってらっしゃるし。

加藤:完全に1つの別ジャンルですよね。

クミコ:ただ恐れ多いのもあるし、でもやってみたら詩の世界とかは私は自分の親のことを思えるしということで、これもリアリズムで。

加藤:別のジャンルと言ってもいいかもしれない。フランスのシャンソンを歌う世界と、シャンソンが持っている本質を日本人がやったらこれになるのかという意味で美輪さんがやり遂げたことだと思うのね。美輪さんがヨイトマケを歌ったか歌わなかったかによっては日本のシャンソンは変わったと思う。私もそれで刺激を受けた一人なので、私も「ひとり寝の子守唄」からオリジナルが始まるんだけど、言語を超えた何かズバってちゃんと土の上に剣を突き刺すみたいな。そういう自分の表現って何?っていうことを訴えた。それに通底する力強さというのがヨイトマケにはあったということですよね。

クミコ:本当にそうですね。

ヨイトマケの唄 / クミコ

田家:お聴きいただいているのはクミコさんの「ヨイトマケの唄」。加藤登紀子さん最初のヒット曲が「ひとり寝の子守唄」。この歌があったから生まれた歌と言っていいんでしょうね。シャンソンを自分たちの歌としてどう解釈するか。美輪明宏さんもそういう動機でこの歌を書いた。加藤登紀子さんはシャンソン歌手としてのクミコさんをどう思っていたのか。こんな話は2人だけじゃ絶対に聞けないでしょうね。

加藤:最初に会ったときはお嬢さんっぽくて、しかもちょっと大胆な訳詩だったので興味を持ったんですけど、この間のステージで私は「幽霊」っていうのをリクエストした。私は歌手になってシャンソンはなかなかレコーディングさえしてもらえなかったと言いながら、歌っていて。アラン・バリエールだったかな。「首吊り男」を歌っているんですよ。1966年にデビューした頃、1970年くらいまで。

田家:そういう日本の流行りものっていう意味のポップ・ミュージックが触れてこなかったり避けてきた、見ようとしなかったことがシャンソンの中でいっぱい歌われているということでもある。

加藤:そうですね。バルバラも初期に翻訳したのは「死に憧れて」。日本人というのは危険な言葉とか反社会的な言葉とかネガティブな言葉を嫌うんですよね。リスクを犯してでもその歌を歌うか、もしくはリスクはちょっと避けておこうかというのはいつもせめぎあいますね。

田家:そこに訳詩の意味がある。

加藤:訳詩をしてでも原曲が持っていたパワーを掴みたいと思ったということはあるかしらね。アズナブールで1回目のコンクールを受けて、4位に落ちたショックもあったんだけど「ラ・マンマ」を聴いたショックはありましたね。訳詩はたしかなかにし礼さんだったような気がする。すごくいい訳詩だったの。母親が死んでいく、息子たちが親不孝者が集まって、最後の息を引き取るまでを見守るという歌なんですよね。

田家:なかにし礼さんも岩谷時子さんも安井かずみさんも、特にシャンソンの訳詩をやってらっしゃった方が歌謡曲を書くようになって、歌謡曲が変わったことがありますか?

加藤:そうですね、あると思いますね。

田家:そういう意味ではシャンソンというジャンル、言われ方はそんなにメジャーなところに今いませんけども。

加藤:あるとき問題になったのはミッテランという人がワールド・ミュージックにシフトしたんです。国家政策として、アフリカ側を全部植民地にしてきたのを全部アフリカ中の音楽とか、世界中の植民地化してきた文化を掘り起こして、全世界にマーケットに広げるという。それを国家政策にしたのよ。そこで利益を得ようとした。それで音楽の担い手たちがワールド・ミュージックに走るんですよね。そのときにラジオから流れる音楽がほとんどフランス語じゃなくなっていこうとした。それでシラフさんが法律を今度変えて、ラジオから流す音楽の50%はフランス語でなければならないと。保守主義に戻したの。そういうこともあったくらい変化が激しかった。初めてフランスでコンサートをしたのは1989年、フランス革命200年という年にふらっと遊びに行ったら、あなたフランス革命200年だから登紀子さんフランスでコンサートをするために来たのねって思い込まれちゃって引っ込みがつかなくなってユネスコホールでコンサートをしたんです。そのときにエディット・ピアフを歌ったの、日本語でね。その時にペール・ラシェイズを、自分のオリジナルのエディット・ピアフを語るための歌を、オリジナル曲を使って。あとは「レボリューション」とかオリジナル曲もいろいろ作りました。それを歌ったんです。観に来ていたピエール・ゴロスという詩人が登紀子はもっとフランスでコンサートをした方がいい。フランス人にはフランス語じゃなきゃダメだと。僕が全部詩を書くからレコーディングしようよっていうことになって、全曲フランス語のアルバムを作って1992年にラセガールとうところでコンサートをした。そのときにミッテランの音楽制作を一手に引き受けた27歳のロック大臣という人が観に来たの。終わった後に登紀子、何も無理してフランス語で歌わなくていい、これからはワールド・ミュージックの時代だ、日本人は日本語で歌えばいいんだと。あなたが一部で歌ったアジアの音楽が魅力的だったと。それぐらいフランスが2年間の間にガラッと変わった。その後だって、エディット・ピアフに並ぶものとしてパトリシア・カースが出てきたので、やっぱりモデルはエディット・ピアフといったことはそれに代わる新しいシャンソンが出てきてないのかもしれないですよね。

Rolling Stone Japan 編集部

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