スウィング・アウト・シスター物語 ふたりが語るルーツと名曲秘話、日本との特別な関係

「Breakout」制作秘話

─コリーンとアンディが出会った頃、イギリスではジャズ・ファンクが全盛でした。アンディとマーティンが最初に作ったデモテープでは52ndストリートのダイアン・シャールメインが歌っていたそうですね。

アンディ:そう、彼女が歌っていた曲があったね。サウンドスケープを作るために、色んなシンガーに歌ってもらっていたんだ。あまりちゃんとしたメロディがないエレクトロな感じのものだった。そこにマネージャーの提案でシンガーを入れることになって、実はあまり気が進まなかったけど、片っ端からオーディションしたんだ。でも誰も気に入らなかった(笑)。ダイアンは素晴らしかったけど、僕たちの音楽には今一つ合わなかったんだ。シンガー探しを諦めかけた頃、僕たちのマネージャーと同じアパートにコリーンが住んでいてね。それでマネージャーがコリーンを連れてきたんだ。「歌いたい! 歌いたい!」って言っていたからね。最初はあまり期待していなかった。ところが一旦歌い出したら、すべてが予想外の形で腑に落ちたんだ。

何が決め手だったかというと……あの頃の、というか今もそうだけど、シンガーの多くは、アメリカ人っぽく歌うというか、アメリカン・アクセントで歌っていたんだよね。僕たちにとってはそれがリアルに感じられなかった。そこにコリーンがやってきて、話すのとまったく同じように歌うんだ。だからすごくナチュラルに聞こえたし、すぐ「僕たちのシンガーが見つかった!」と思ったよ(笑)。これもまたアクシデントだったね。

─しかしSOSがスタートして間もない頃、コリーンが落馬して大怪我を負ったそうで。

コリーン:あれがきっかけで、「好きなことをやらなくちゃ」と思うようになったのよね。つまり歌をやるってことなんだけど。と言うのも、アンディやマーティンとデモを作っているのと同時進行で、ファッションデザイナーの仕事もしていたから。その頃に作ったデモのひとつが「Blue Mood」で、それが1stシングルになったのよ。でも仕事は続けていたから、「歯医者に行きます」とか言って抜け出さないといけなかった。マンチェスターに行ってデモを作るために「あの、お腹が痛くて」とか言って会社を休んで……ちょっと悪い子だったわね(笑)。

そうやってデモを作っていくつかレコード会社に送ったら、大した成果はなかったけど、一応オファーはあって。クリスマス直後にマンチェスターでデモをレコーディングすることになっていたのよ。私は田舎にある母の家でクリスマスを過ごしていて、そこで小さな馬を飼っていてね。その馬はあまり人を乗せた経験がなかったけど、私は子供の頃に馬に乗った経験があったから、大丈夫だろうと思って乗ったのよ。ところがいざ乗った途端、その馬がクレイジーになっちゃって……とにかく私を振り降ろしたくて暴れ始めたの。気づいたときには4日経っていて、頭蓋骨が折れていた。当然デモも完成させられなくて、契約するチャンスを失ったの。

アンディ:写真を見たらコリーンがパンダみたいになっていたよ。目の周りに大きなアザができていてね。

コリーン:ええ(苦笑)……そのおかげで私はスローダウンを余儀なくされた。何カ月もベッドに寝たきりだったわ。ほとんど話せなかったし、歩けなかった。平衡感覚を失ってしまったから、すべてを取り戻さないといけなかった。唯一できたのがメモを取ることだったの。意味不明のことを書いていたこともあったけど、中にはデヴィッド・ボウイの歌詞を彷彿させるものもあったわ(笑)。意識の流れに任せてとにかく書いていたのよ。心の中から出てくる、とても不思議なことをね。瞑想で自分を見つめ直すようなことを強制的にやっていた。あれは禅みたいな経験だったわ。横になってノートに色々書くことしかできなかったから、書くことですべてを出していって、それが歌詞になったの。



─「Breakout」の歌詞も入院中に書いたんですか?

コリーン:あの歌詞はその時書いたものではなかった。あれはひと晩で慌てて書いたものなのよ。デモの締め切りがあることを思い出して、翌日までに提出しないとレーベルから契約を切られてしまうという話だった。ファッションデザイナーの仕事にも復帰しないといけなかったし、その合間にアンディとマーティンとさらにデモを作らないといけなかった中で、「私、何でこんなことをやっているんだろう?」と思ったのよ。「こんなの私の望んでいる暮らしじゃない」ってね。九死に一生を得るような経験をすると、人生って一瞬で終わってしまうこともあるんだって気づくのよ。だから好きなことをしないと、ということよね。ファッションデザインの仕事では結構いいお金を稼いでいた。でも、「それに何の意味がある? すべてが満たされる訳じゃないのに」と思ったの。

「Breakout」のデモを翌日に提出しなくちゃいけない状況で、アンディとマーティンはマンチェスターにいて、ちょうどアンディはア・サートゥン・レイシオとツアー中だった。私はノースロンドンの自分の部屋で、カセット・レコーダーに歌を吹き込んで……録音機能のついたウォークマンを使って歌いながら録音したの。そうやって最初のデモテープを提出したのよ。あの頃はカセットをたくさん買うお金がなかったから、古いカセットを使いまわしていたわ。新しいものはボーカルを録るときのためにとっておいたの。それをバイクで送ったのよ。

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─そんな状況で生まれた曲だったんですね。「Breakout」のレコーディング中、プロデューサーのポール・オダフィはアンディに複雑な和音を簡略化するよう迫ってきて、ふたりの間で攻防があったと聞きました。当時のエレクトロポップでは使わないようなテンションコードが「Breakout」の魅力ですから、よくぞ妥協せず守りきってくれましたね。

アンディ:アハハ……そうやって感謝してくれる人がいて良かったよ(笑)。ポールは押しの強いキャラクターで、僕が自分の思い描いた通りのプレイをしていると、「今のコードをもう一回弾いてみて」と言う。それで弾き始めると、僕の指を1本だけ鍵盤から離して「この音は要らない」なんて言うんだ(苦笑)。で、僕が指を元に戻すと、また鍵盤から指を離そうとする(笑)、そんな感じだったね。ともあれ、ポールはとてもクリエイティブな人だよ。彼がいなかったら『It's Better To Travel』のようなアルバムができたとは思えない。とてもよく励ましてくれたし、ぶつかることはあったけど、このサウンドを作るために大きな役割を果たしてくれた。彼は稀なコンビネーションの持ち主で、プロデューサーとしてはとても実利的なところがある半面、とてもクリエイティブな面も発揮してくれた。低予算だったから闘う必要もあったしね(笑)。でも回り道を厭わずに、いい道を見いだしてくれる人なんだ。彼と出会えてすごくラッキーだったよ。

「Breakout」を出したときは、あれがヒットするなんて誰も予想していなかった。契約はシングル2枚分で、あれが2枚目だったんだ。作るのにはちょっと時間がかかったけど、すぐにチャート・インした。だけど僕たちはまだアルバムがなかったから、レコード会社が「これはクレイジーな話だ。シングルがトップ10入りしたのにアルバムがないなんて」と言い出してさ。それで慌てて(アルバム作りの)青信号を出したんだ。そこからは大急ぎだったね。それが『It's Better To Travel』では功を奏したような気がする。「もしかしたらこうした方がいいのでは?」みたいに悩む時間があまりなかったからね。時間がありすぎるといじくり回して台無しにしてしまうこともあるし。もっと時間があったら、別の方向に流れてしまっていたかもしれない。まあ、僕らはその後、色んな方向に何度も流れることになる訳だけど(笑)。


Translated by Sachiko Yasue

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