刑部芳則が語る、昭和モダニズムの先駆者・服部良一が作った大戦前後の楽曲

チャイナ・タンゴ / 中野忠晴



田家:昭和14年4月発売。

刑部:西洋の管弦楽器で演奏して作曲されているんですけど、その技法を使いながらもどことなく中国の雰囲気がすごく出ている感じなんですよね。そこの魅力、迫力ですね。それをちょっと感じてもらいたいなと思って選んでみたんです。

田家:中野忠晴さんは服部良一さんの歌をたくさん歌ってらっしゃる?

刑部:歌ってますね。服部さんを迎え入れたのが中野さんなので。特にコロムビアの場合は男性のジャズ・シンガーが何人かいたんですけど、その中でも一番売れっ子だったのが中野忠晴さんなんですよね。初期の頃、戦前は歌っていますよ。

田家:戦前のレコード会社でジャズに力を入れていた会社はコロムビアなんですか?

刑部:コロムビア、それからビクターなんかの外資系ですよね。だけど、国産では例えばテイチクのディック・ミネさんは昭和9年に「ダイナ」がヒットしてますけど、コロムビアで「ダイナ」を吹き込んだのも中野忠晴さんなんです。

田家:あ、そうなんですか。戦前の日本のレコード会社の中でそういう洋楽はかなりの比重を持っていたということですか。

刑部:そうですね。特にコロムビアとビクターというのが二大巨頭のような形で洋楽をかなり入れてきていますよね。

田家:それを支えていたのが服部良一さんだったということになるんでしょうが、服部さんはシナというふうに当時の歌詞で使っていましたが、中国と縁の深い作曲家なわけでしょう?

刑部:そうですね。昭和13年に東京日日新聞、大阪毎日新聞が主催の皇軍慰問団というのが作られました。これで服部さんが中国各地を回って歩くんですよ。ここで中国のメロディというのはとてもおもしろいと感じた。日本の今の流行歌界にこういった作品がないから、これを取り入れればジャズとは違った、また変わった独自の作品ができるんじゃないかと言って作られていくんですよね。

田家:それまではそんなに中国に対して興味があったり、音楽的に関心を持っていたということではなかったんですかね。

刑部:そうですね。どちらかと言うと、朝鮮半島。当時は日本の植民地支配ですけど、朝鮮半島の音楽と日本との関わりの方が強かったと思います。

田家:演歌は朝鮮半島との関わりが深い。古賀政男さんがそうだったということなんでしょうけども。

刑部:そうですね。服部さんは古賀さんとの違いを出そうと努力していたので、これを持ってくれば古賀さんと違う作品ができると考えたんだと思います。

田家:ニューオリンズとチャイナが一緒になったというのが「チャイナ・タンゴ」なんですね。先生が選ばれた今日の4曲目。これもご存知の方が多いでしょうね。高峰三枝子さんで「湖畔の宿」。

湖畔の宿 / 高峰三枝子



田家:昭和15年発売。

刑部:これは服部さんのチャイナ・メロディとはまた別に、ブルースだと思うんですよね。歌ってるのが当時人気女優だった高峰三枝子さん。当時、歌手の人はセリフがダメ。女優の人は歌がダメなんですね。それを両方できたのが高峰三枝子さん。私の亡くなった祖母もそうですけど、その世代の若い女性たちから圧倒的人気だったんですよね。あの世代の人たちで高峰三枝子さんが嫌いな人はほとんどいないと言ってもいいぐらいな人気なんですよ。その人たちが非常に支持していた「湖畔の宿」を今の人たちに聴いてもらいたいなと思って選んでみました。

田家:そういう意味では所謂、敵性音楽的な扱いはされなかったんですか?

刑部:特に太平洋戦争に突入して、だんだん日本の旗色が悪くなってきますと、活力が出ない退廃的な音楽だということで国内的には公然と歌ったり聴いたりすることが好ましくないとは受け取られました。

田家:この「湖畔の宿」もそうだったんだ。

刑部:ええ。ただ発売禁止にはなりませんでした。むしろ戦地の兵隊たちはこれをすごく聴きたがるんですよ。特に神風特別攻撃隊とかね。そういう人たちは明日命があるかどうかわからないので、慰問先ではこれは歌うことが許されていたんですよね。

田家:なるほど。国内ではダメだけど、戦地ではしょうがないと。

刑部:兵隊たちの慰め、そして明日戦う活力にもなるということでリクエストの時間というのがあって、リクエストすると高峰さんの場合は「湖畔の宿」が集中したみたいですよ。

Rolling Stone Japan 編集部

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