BLMで再注目、名曲「奇妙な果実」の歴史的背景と今こそ学ぶべきメッセージ

ホリデイの「奇妙な果実」が引き起こした反応

音楽として考えると、「奇妙な果実」はカテゴリー分けしがたい。「これはブルースだろうか?」ミーアポルの息子であるロバートが問う。「ブルージーなイントロはあるけれども、リズム・アンド・ブルースではない。ブルースじゃないんです。何にも似ていない。音楽的に言って、エイベルがそれまで書いたものとも全然似ていない。この音楽をカテゴリーに当てはめようとするのには反対だ」。

ひとつ、疑いようのない事実がある。ホリデイが綴っているように、この曲を歌うには、「自分の持てる力すべて」が必要だった。カサンドラ・ウィルソンはこの曲を2バージョンにわたって録音しており、最初のバージョンは1996年のもの。彼女もホリデイに同意する。「問題は、歌うのが難しいっていうことではなくて」と彼女は語る。「感情を出し切ってしまうこと。生で演奏するときには、いつも最後の曲として演奏する。だって、その後にはなにもできなくなってしまうから」。



ホリデイの「奇妙な果実」は幅広い反応を引き起こした。ポジティヴからネガティヴまで、好意的なものから激昂まで。ホリデイのバージョンはミーアポルにも影響を与えた。彼はこの曲をルイス・アランという偽名で出版していた。自分と妻であるアンの、死産した子どもたちの名前からとった筆名だ。ホリデイのバージョンが音楽界に衝撃を与えるとすぐに、ミーアポルはニューヨーク州議会のラップ=クーデル委員会で証言することになった。州の公立学校や大学にいる、共産主義者の影響を疑われる者を調査する委員会だ。ロバート・ミーアポルは、共産党の指示でこの曲を書かされたのか、などと父が訊ねられていたのを回想しつつ、父は公聴会を「とても愉快だ」と感じていたようだと語る。

ミーアポルが驚いたのは、ホリデイが自伝のなかで、彼が詩に音楽をつけるのを彼女が手伝ったとほのめかしていたことだ。ミーアポルの家族によれば、これは事実と異なる。しかしエイベル・ミーアポルは告発せず沈黙を貫いた。「彼はレイシストたちにビリー・ホリデイを攻撃する材料を与えたくなかった」とロバートは語る。「だから彼は、彼女が作品について間違ったことを言っているのを一度も公に批判しなかった」。自伝の出版社に勧められて、後にホリデイは次のようなステートメントを発表した。いわく、「奇妙な果実」はたしかに「ルイス・アランによるオリジナル作品」であり、彼が「唯一の作者」である、と。

1953年には、ミーアポルはロサンゼルスに引っ越し、フルタイムのソングライターに転身した。彼の最も知られた作品には、他にも反偏見を歌う「ザ・ハウス・アイ・リヴ・イン」がある。フランク・シナトラの歌唱で不朽となった一曲だ。その際、ミーアポルの名前は再びニュースのヘッドラインに登場した。彼と妻が、ロバートとマイケル兄弟と養子縁組したのだ――彼らはジュリアスとエセルのローゼンバーグ夫妻の息子たちだった。この夫妻は、ソ連にアメリカの原爆に関する機密を漏らしたとされ、同年に合衆国政府から処刑されたのだ(ローゼンバーグ事件:夫妻は双方無罪を主張し続けた)。ゴシップ・コラムニストのウォルター・ウィンチェルは、マッカーシズム吹き荒れる時代にのっかり、赤狩りの噂を次々に書き立てたひとりだ。彼は記事にこんなことを書いている。「エイブ・ミーアポルはローゼンバーグの子どもたちを家にかくまい、アカの会員名(ルイス・アラン)を持っている。この男が『奇妙な果実』を書いたのだ(原文ママ)」。

ロバート・ミーアポルは、ミーアポル家に引き取られたとき7歳くらいだった。彼によると、生みの両親が「奇妙な果実」に親しんでいたかははっきりしないという。記憶によると、ローゼンバーグ夫妻のレコードコレクションには、ホリデイのアルバムは一枚もなかったし、クラブに出かけることもそうなかった。しかし、死の前に獄中から送られた手紙のなかで、この曲に言及したことがあったとも語る。「私にしてみれば、彼らがあの曲を知っていたのは明らかだ」とロバートは言う。「彼らの政治信条を考えれば、(むしろ知らないほうが)びっくりだ」。

Translated by imdkm

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