追悼エディ・ヴァン・ヘイレン、ギターと共に歩んだ65年の人生

1995年にローリングストーン誌に登場したとき、エディは「デイヴと俺らのプロデューサー、テッド・テンプルマンが(俺の新スタジオ5150に)ビビッたんだよ。このスタジオで最初にやったのが『ジャンプ』で、あの二人はこれが気に入らなかった。俺は『嫌ならやめれば?』と返したよ。当時の俺は二人が言うところの商業的なアイデアってのに嫌気がさしていた。これが(1982年の)『ダイヴァー・ダウン』でカバー曲をやった理由。俺はカバーバンドなんかになるつもりはなかったよ」と説明していた。

バンドはカオスの中へと陥って行ったが、エディは私生活で平和を見つけていた。コメディドラマ『One Day at a Time』に出演していた女優ヴァレリー・バーティネリと1981年に結婚したのである。ロスはこの結婚に不満だったとエディが教えてくれた。独身のパーティー好きというワイルドなバンドイメージとそぐわないから、と。「彼が『お前の女房にはデトロイトに来るなと言ってくれよ。LIFE誌のインタビューがあるからさ』と言ったのを覚えている。連中が彼女を追い詰めて、何かマズいことになるかもしれないと心配になって、結局彼女はライブに来なかった。俺はこらえたよ。でも彼女は傷ついた。彼女がどんなふうに感じるか、分かるだろ? 俺らの世界に入ってきたばかりの彼女は、あんなふうに除け者扱いされて傷ついたんだよ」と1986年のローリングストーン誌でエディは話している。

『ダイヴァー・ダウン』の次のアルバムをレコーディングする段になって、エディは「ジャンプ」のレコーディングとシンセサイザーの使用を主張して譲らなかった。その結果、アルバム『1984』はスマッシュヒットとなり、「ジャンプ」「パナマ」「ホット・フォー・ティーチャー」のミュージックビデオがヘビーローテンションされたため、彼らはMTVのスーパースターとなった。アルバムは100万枚単位でセールスを伸ばし、ビルボード200で2位まで駆け上がったのである。このアルバムのツアーで彼らは世界中をまわったが、この頃にはオフステージのエディとロスは口を聞くことすらなくなっていた。このツアーが終わり、ロスはバンドを脱退してソロ・アルバムを作り始めた。1995年のローリングストーン誌で、エディは「俺は泣いた。ひとしきり泣いてから、兄に電話して『あのクソ野郎がやめた』と伝えたよ。最後には逃げるヤツのために、俺は何年もわがままを我慢してきたってことさ」と言っている。

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エディもソロ・アルバムの製作を一瞬考えた。フィル・コリンズ、ジョー・コッカー、ピート・タウンゼントなど、錚々たるゲストを迎えてやろうかな、と。しかし、すぐに新たなヴォーカリストを迎えてバンドを継続すべきという考えに至った。フェラーリのディーラー、クラウディオ・ザンポリが元モントローズのフロントマン、サミー・ヘイガーとのミーティングを手配した。サミーはソロになって「非情のハイウェイ55号」という大ヒット曲を出したばかりだった。彼らはとりあえずジャムしてみた。「ものすごい化学反応がおきて、かなりエキサイティングだった。夜中までプレイし続けた。12時間一度も休まないで。家に寝に帰って、翌朝起きたて、『うわっ、俺はあのバンドに入るんだ』って思ったよ」と、ヘイガーは2016年にローリングストーン誌に語った。

Translated by Miki Nakayama

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