ボブ・ディラン、世界を震撼させた『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』の革新性

 
バンド編成によるレコーディング

1965年1月13日は、アルバムのセッション初日だった。ディランはいつものようにアコースティックギターとハーモニカとピアノを弾き、一人でアコースティックバージョンのレコーディングを完結させた。オールエレクトリックのアルバム用に、デモバージョンのレコーディングをしていたとも言われている。しかしディランの頭の中には、各曲に対するベストなアプローチが浮かんでいた。彼の直感は、サメのように鋭かった。「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」、「ボブ・ディランの115番目の夢」、「ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット」、「オン・ザ・ロード・アゲイン」、さらに「アウトロー・ブルース」の別バージョンが、初日にレコーディングされた。これら楽曲に対しては、さまざまなバージョンの存在が後日明らかになる。最初のレコーディングから48時間後、最終バージョンとして全ての楽曲がエレクトリックでレコーディングし直されることとなる。


「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」佐藤良明による日本語字幕付きバージョン

初日のセッションでは、「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」のランスルーと、素晴らしくソフトなタッチの楽曲「アイル・キープ・イット・ウィズ・マイン」もレコーディングされた。アルバムに収録されなかった「アイル・キープ〜」は、ドイツ出身の女優でシンガーのニコに捧げられた曲だとされる。後にヴェルヴェット・アンダーグラウンドに参加するニコは、ギリシャでディランと充実した時間を過ごした。(ニコは「アイル・キープ〜」を自身のソロ・デビューアルバムに収録した。一方でディランのアウトテイク・バージョンは、後にいくつかのコンピレーション・アルバムで聴くことができる)。彼の名曲のひとつがお蔵入りしてアウトテイクの山に埋もれてしまったのは、当時のディランが最高に勢いづいていた証でもある。



翌1月14日、プロデューサーのトム・ウィルソンはミュージシャンたちを集め、作品の仕上げにかかった。『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』でもベースを弾いたビル・リー(映画監督スパイク・リーの父)、ドラマーのボビー・グレッグ、ピアニストのポール・グリフィンらに加え、ディランからのリクエストによりマルチ奏者のブルース・ラングホーンも参加した(中東の特大タンバリンを所有していたラングホーンは、楽曲「ミスター・タンブリン・マン」のモデルとなった人物で、実際に同曲でエレクトリックギターを弾いている)。

レコーディングの1カ月前にトム・ウィルソンは、ボブ・ディラン・バージョンの「朝日のあたる家」を含むディランの3つの楽曲にロックのバッキングをオーバーダブしようとしたものの、うまく行かなかった。しかしウィルソンは1965年、サイモン&ガーファンクルによる楽曲「サウンド・オブ・サイレンス」にドラムとキーボードを加え、チャート1位を獲得した。ディランの楽曲に試みたのと同様のテクニックを使い、フォーク・ポップの転機を作ったのだ。ディランの場合は、生のバンドと一緒にプレイした方がしっくり行く。そしてレコーディング・セッションが進むにつれ、曲がどんどん形になっていった。『ブリング・イット〜』の印象的なジャケット写真を撮影したダニエル・クレイマーが、後に振り返っている。「曲のほとんどは、3、4テイクでスムーズに仕上がった。ディラン流のメソッドと彼の揺るぎない方向性のおかげで、全てが流れるように進んで行った」


Translated by Smokva Tokyo

 
 
 
 

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