ボブ・ディラン、世界を震撼させた『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』の革新性

 
「ミスター・タンブリン・マン」にまつわる話

作詞家としてのディランの成長が最も顕著に見られるのが、アルバムのアコースティックサイドの楽曲「ミスター・タンブリン・マン」と、完全アンプラグドの「イッツ・オールライト・マ」だ。どちらの楽曲にも、熱狂的に溢れ出る彼の言葉が、具象と抽象の形できらきらと散りばめられている。B面に収録された「ミスター・タンブリン・マン」は、全楽曲の中でもおそらく最初に作られたと思われる。ニューオーリンズ滞在時から作り始めた同曲は、前年(1964年)5月にロイヤル・フェスティバル・ホールでのコンサートで披露されている。



毒されたカルチャーを激しく批判する内容の「イッツ・オールライト・マ」は、1964年10月にフィラデルフィアのステージで初めてお披露目された。ディランは、どちらの楽曲もロバート・ジョンソンのブルーズの歌詞と、ベルトルト・ブレヒトとクルト・ヴァイルによる語り口調のユニークな歌曲「海賊ジェニー」に大きな影響を受けた、と証言している。事実、『ブリング・イット〜』のジャケットに写るディランの部屋には、ブレヒト/ヴァイルとロバート・ジョンソンのアルバムが置いてある。「イッツ・オールライト・マ」は間違いなく、ディランを代表する最高で最もダークな、政治色の濃い最後の作品のひとつだといえる。1964年の夏、ウッドストック(ニューヨーク州)にあるディランの自宅には、ジョーン・バエズやリチャード&ミミ・ファリーナといったフォーク界の仲間たちが滞在していた。「イッツ・オールライト・マ」は、この時期に作られている。スタジオに入ったディランは、この曲にはアコースティックギター1本で十分だと考え、その通り見事に歌い上げた。「火花を散らすおもちゃの銃から 暗闇で光を放つ肌色のキリストまで全部」、さらに広告宣伝、プロパガンダ、伝道師、教師、政党、群衆、役人、お金、説教じみた裁判官、合衆国大統領……と、ディランがこれほどまでに忌まわしい消費カルチャーに対する怒りをあらわにしたことはなかった。とはいえ、何かを具体的に名指しで非難している訳ではない。ディランのサウンドは、彼を世代の預言者に祭り上げた政治色の濃い作品から、「努力しても意味がない……それが人生。人生そのものだ」といった、より広い見地に立った諦めの境地へと移行していった。



「マジックにかけられたように前後左右に揺れる船に乗って」や「心の中に浮かんだスモークの輪をくぐり抜けて消えていく」といった歌詞から、軽快でノリの良い「ミスター・タンブリン・マン」は、ドラッグ・ソングのひとつだと言われている(1964年にディランは、ニューヨークのホテルの一室でビートルズのメンバーらにマリファナを勧めたことがある)。しかしそれは、浅はかな解釈に過ぎない。曲の根幹にあるのは、音楽そのものが持つパワーに対する賛辞なのだ。「彼はそれまで本の世界だけに留まっていたものを、歌として表現しているのさ」と、ディランの友人でミネソタ出身のフォーク・ミュージシャンのトニー・グローバーは言う。「考えてみたら彼は、ものすごいことをやっているんだ」




『ブリンギング・イット〜』に収められた「ミスター・タンブリン・マン」だが、実は前作『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』へ収録する予定で1964年6月にレコーディングされたものの、ボツにされた作品だった。その後、当時ウエストコーストで結成されたばかりのグループ、ザ・バーズがディランのオリジナル曲をアレンジし、独自のエレクトリックバージョンに仕上げた(「ものすごい衝撃を受けた」と、バーズのデヴィッド・クロスビーはディランのアウトテイクを聴いた時のことを振り返る。「僕らはチャンスをもらえてラッキーだった。彼の曲からグレートなロックンロールソングが出来上がったんだからね」)。 皮肉なことにバーズのカバーバージョンが、ポップソングのランキングにおけるディラン初のナンバー1ヒットとなった。1965年5月のことだった。

「バーズを結成した頃に、彼がスタジオへ来てくれた」とクロスビーは振り返る。「僕らは『タンブリン・マン』をレコーディングさせてもらうので、がんばりますと伝えた。ディランは目の前で、自らが作った曲のエレクトリックバージョンを聴いていた。すると彼の頭の中で歯車が回り出すのがわかった。スローモーションで稲妻が走るのが、はっきりと見えた」

Translated by Smokva Tokyo

 
 
 
 

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