ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』革命的2枚組とロック名作が競い合う1966年

 
ロック名作が競い合った1966年

1966年はローリング・ストーンズの『アフターマス』、ビートルズの『リボルバー』、キンクスの『フェイス・トゥ・フェイス』、ザ・フーの『ア・クイック・ワン』、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』、オーティス・レディングの『ソウル辞典』、バーズの『霧の5次元』など名作が競い合うようにリリースされ、多くのアーティストたちがしのぎを削った時代だった。『ブロンド・オン・ブロンド』の数カ月前にリリースされたビートルズの『ラバー・ソウル』は、明らかにディランをメロディー競争へと引き込むきっかけになった。ディランの「フォース・タイム・アラウンド」が、ビートルズの「ノルウェーの森」のパロディーだとされる話は有名だ。ディランは大胆にも、ジョン・レノンの前で個人的に「フォース・タイム・アラウンド」を歌って聴かせたという(レノンは1968年のローリングストーン誌のインタビューで「ディランが“どうだ?”と言うから、僕は“好きじゃない”と答えた」と語っている)。しかし、もしかしたらディランは、自身の「ジョアンナのヴィジョン」や「ローランドの悲しい目の乙女」が、ビートルズの『ラバー・ソウル』から受けた影響の大きさを隠すために、「ノルウェーの森」をあからさまに模倣せざるを得なかったのかもしれない。




ディランは1965年10月に、ザ・バンド(当時はザ・ホークス)と共にニューヨークのスタジオでセッションを開始した。セッションでは、騒々しいシングル曲「窓からはい出せ」をはじめ、長い間ブートレッグとして人気の高い「シームズ・ライク・ア・フリーズ・アウト(“ジョアンナのヴィジョン”の原曲)」「ナンバー・ワン」「シーズ・ユア・ラヴァー・ナウ」などがレコーディングされた。ディランが楽曲の出来に満足しなかった理由は知る由もない。しかし1966年1月末までに、アルバム向けに仕上げたのは1曲だけだった。アルバムのハイライトのひとつと言える、無情な楽曲「スーナー・オア・レイター」だ。1966年2月、ディランはプロデューサーのボブ・ジョンストン、オルガニストのアル・クーパー、ギタリストのロビー・ロバートソンを伴ってニューヨークを離れ、ナッシュビルに3日間滞在した。ナッシュビルのミュージック・ロウには、チャーリー・マッコイ、ハーガス・“ピッグ”・ロビンス(ピアノ)、ジョー・サウス(ベース)、ウェイン・モス(ギター)、ケニー・バトレー(ドラム)も集結した。

毎日決まった時間に仕事するカントリーソングのプロだった彼らは、ディランのエキセントリックなやり方に慣れるのに苦労した。ディランが書きかけの曲の仕上げに熱中している間、ミュージシャンらは真夜中過ぎまでスタジオの事務所でカードゲームをしながら時間を潰さねばならなかった。彼らがスタジオへ呼ばれて演奏を始めるのが午前4時ということもあった。ところがいざレコーディングを始めると、曲が3分で終わらないことに、皆が唖然とした。ミュージシャンたちが最後のコーラスを演奏しているつもりでいると、ディランは追加で別の歌詞を歌い出すのだ。「片手でドラムを叩きながら、腕時計を確認したものさ」とバトレーは、当時を振り返る。「全員があんな経験は初めてだった」と証言した。およそ12分後に、彼らはようやく「ローランドの悲しい目の乙女」の演奏を終える。



ナッシュビルでの3日間でディランとミュージシャンたちは、「ジョアンナのヴィジョン」、「フォース・タイム・アラウンド」、「メンフィス・ブルース・アゲイン」もレコーディングした。1966年3月に再びナッシュビルを訪れた際は、ベースにヘンリー・ストルッゼレッキーを迎えた。彼らは徹夜で6曲をレコーディングし、「アイ・ウォント・ユー」を仕上げたのは明け方になってからだった。しかしミュージシャンたちは全員が、荒削りな楽曲の数々を伸び伸びと演奏することで、エネルギーを得たようだった。例えばあるアウトテイクには、「ヒョウ皮のふちなし帽」のロバートソンのギターに対して、マッコイが「世界中が君と“結婚”したいと思うだろうよ!」と満足げに語る声が入っている。

あまりにも仕上がりの良い楽曲が多かったため、『ブロンド・オン・ブロンド』は1966年5月16日に2枚組アルバムとしてリリースされた。モッズコートを着てチェック柄のマフラーを巻いたディランがニューヨークの冬の街にたたずむ姿を撮った、ジェリー・シャッツバーグによるジャケット写真も素晴らしかった。ディランは、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』と『ナッシュヴィル・スカイライン』のジャケット写真でも同じコートを着ている。当初、『ブロンド・オン・ブロンド』の見開きジャケットにはイタリアの映画スター、クラウディア・カルディナーレの写真が使われていたが、残念ながら後のリリースでは削除された(ナッシュビルでクラウディアは、ディランほど場違いな存在ではなかっただろう)。2カ月後の1966年7月29日(日付に関しては諸説ある)にバイク事故を起こしたディランは、突然表舞台から姿を消した。肉体的な傷とスターにつきものの精神的なダメージを癒すため、彼はウッドストックに籠り、翌年は公の場に現れなかった。ロックンロールな生活が、彼の心身を冒していたのだ。

『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドからも、各楽曲が当時のディランの状況を反映していたことがわかる。55年以上が経過した今、『ブロンド・オン・ブロンド』は、ボブ・ディランが運良く無事に生き延びられた証となる作品だ。

From Rolling Stone US.




LP 
『ブロンド・オン・ブロンド』
2022年6月22日発売 ¥6,050(税込)
購入:https://BobDylan.lnk.to/BlondeonBlondeJPLPFA

1] ソニーミュージックグループ自社一貫生産アナログ・レコード、180g重量盤、完全生産限定盤
[2] 2022年Sony Music Studios Tokyoにてカッティング
[3] 新対訳&訳者ノート(佐藤良明)付
[4] 日本初発売時の解説(中村とうよう)、2013年解説(クリントン・ヘイリン)、補足(菅野ヘッケル)収録
[5] ジャケット外装(A式Wジャケットを採用)、日本初発売時のLP帯再現

祝・デビュー60周年アナログ・レコードの詳細:https://www.110107.com/dylan_60/

Translated by Smokva Tokyo

 
 
 
 

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