ベルウッド・レコード50周年記念、三浦光紀と振り返るはっぴいえんどとの出会い

雨が空から降れば / 小室 等

田家:1971年4月1日に発売になったシングルですね。ベルウッドは1972年の4月が正式な発足で、前の年に前史があったんですよね。

三浦:これはキングレコードから出た最初の作品ですね。小室さんのアーティスト第1号。僕は小室さんと一緒にギターの教則本を作っていたんですけど、小室さんの家に通っていたら松岡正剛さんがやってる「the high school life」で小室さんが自分で書いた曲を譜面付きで乗せて解説していたんですね。小室さんに「これ誰が歌うんですか?」って聞いたらまだ誰も決めてないと。「自分で歌ってくださいよ」って言ったら「僕はプロデュースとかギターの方でやろうと思ってるんで、今までボーカリストとしての自分を考えたことはない」と言われて断られたんですけど、何度もお願いしてやっていただきました。

田家:そこから始まったんですね。2人がそこで出会ってなかったら、ベルウッド・レコードはなかったっていうことです。

12月の雨の日 / はっぴいえんど

田家:2曲目は1971年4月発売、はっぴいえんど「12月の雨の日」のシングルバージョン。このシングルのB面が「はいからはくち」でありました。さっきの「雨が空から降れば」と同じ日に出たんですよね。この2枚、初回ともプレスが1万枚だったってどこかで読みました。こういう音楽で1万枚は当時では多い数だったんじゃないですか。

三浦:そうですよね。枚数は僕が決めてました。営業部もこういう音楽扱ってないから、自分たちでこの数字は作らないって言われて。それで僕が決めて、駄目だったら責任取りますと。

田家:はっぴいえんどは1970年の8月にURCからデビューして。この「12月の雨の日」もアルバムはURCから出た1枚目の『はっぴいえんど』の中に入ってるわけで、これをシングル盤にしようと言ったのは三浦さんだったんですか?

三浦:いや、この曲でいきたいって言ったのは、はっぴいえんどですね。だから「花いちもんめ」もシングルなんですけど、あれもメンバーが決めました。

田家:なるほどね。はっぴいえんどは中津川で?

三浦:はい。1970年のフォークジャンボリーで、はっぴいえんどと高田渡さんを口説いて、ベルウッドに入ってもらいました。

田家:もうURCから出ていることは知っていたんですか?

三浦:僕はURCから出てることも知らないで中津川に行って、岡林さんのバックをやってる はっぴいえんどを聴いて。鈴木さんのギターがすごいなと思って、やりたいなと思って「やらせてください」って言ったら、「もうアルバム出てます」って言われました。それぐらいの知識しかなかったんですよね。

田家:でもそういう意味でベルウッド・レコードは、小室さんとはっぴいえんどで始まった。

三浦:小室さんしかいなかったんですよ。1970年にはっぴいえんどと渡さんが加わって。それで小室さん、はっぴいえんど、渡さんしかいなかった。

田家:つまり、三浦さんが知っているフォークロック系のミュージシャンが最初小室さんしかいなかったという、すごい始まりだった。

三浦:そうですね。しかも小室さんは、僕の先輩の小池さんという方が担当していて、僕はアシスタントをやっていたんですけど、小池さんが「小室さんには三浦さんの方がいいかもしれない」って僕に譲ってくれたんです。

田家:その時は小室等は何者って感じがあったんですか?

三浦:ギターの先生という印象しかなかったですね。

田家:そういう始まり方でこの50周年が誕生したと考えると、かなり違う印象をお持ちになるんじゃないかと思います。キングレコード時代、つまりベルウッドはこの翌年に始まるわけで、アルバムの第1号もこの人でありました。第1号アルバム、1971年5月発売、小室等さんの1stアルバム『私は月には行かないだろう』から、三浦さんが選ばれたのは「あげます」。
あげます / 小室 等

田家:『私は月には行かないだろう』はお作りになった第1号のアルバムですか?

三浦:そうです。それでこの歌がなんですごいと思ったかと言うと、まず現代史の詩人が曲をつけてること。それとトーキング・ブルース・スタイルですよね。当時、そういう曲を作っている日本人を知らなかったんですよね。

田家:この「あげます」は谷川俊太郎さんで、タイトル曲の「私は月には行かないだろう」が、大岡信さん。

三浦:小室さんが谷川さんの詩にメロディをつけて、あと高田渡さんの「ごあいさつ」も谷川さんの詩にメロディをつけてる。この「ごあいさつ」と「あげます」はすごいなと思っていつも取り上げているんです。

田家:さっきちょっと話に出た小室さんとの出会いは、1970年9月に出た『フォークギターの世界』というギター教則本のアルバムだった。三浦さんはその時は文芸部教養課というところにいらしたんですよね。

三浦:そうです。教養課から出すアルバムでは、流行歌とかポップスをやっちゃいけないんですよね。教養課らしく教則本から行こうかなと。というのは小室さんはフォークギターの教則本を朝日ソノラマから出していた。僕もそれを見ながらギター練習したり、中川イサトもそうらしいんですよ。でも僕は全然上手くならなくて、教則本のせいにしてた(笑)。それで「もう1回やりましょうよ」って言って、小室さんが教則本を作る時にいろいろなフォークの名曲をピックアップしてくれてフォークのレーベルやアーティストを知るようになったんです。それまでレコードを聴いてなかったですから(笑)。

田家:三浦さんは早稲田のグリークラブにいらしたわけですもんね。

三浦:ラジオでは聴いていたんですけどアルバムでは聴いてないんですよね。だから、よくフォークのことを知らなくて。それで小室さん、後に高田渡さんとか大瀧さんたちに教えてもらう感じでした。

田家:小室さんは最初、「自分は歌う側には回らない」と言っていた。その時に説得する決め手みたいなものがあったんですか?

三浦:合唱コンクールをやってるわけじゃないし、やっぱり歌って上手い下手じゃなくて味ですから。本人が歌った方が味わいが出るし、説得力も出るから僕は小室さんじゃないと駄目だと思ったんです。特に「あげます」とかは本人が歌わないと駄目だと思うんですよね。それで何とかお願いしますって言ったんだけどなかなかOKしてくれなくて、やっとやってもらった感じです。

田家:小室さんもそれがなかったら今の小室等はないだろうけど。

三浦:本人も言ってますもんね。

田家:この曲の時、小室さんはどういう反応だったんでしょうか。1971年11月発売の六文銭で「出発の歌」。

Rolling Stone Japan 編集部

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