ベルウッド・レコード50周年記念、三浦光紀と振り返るはっぴいえんどとの出会い

ごあいさつ / 高田渡

田家:これは会社の機材を持ち出して収録したライブなんでしょう?

三浦:そうです。去年かな、僕の上司の長田さんからハガキをいただきまして、「当時、三浦くんが機材を持ち出したことで、僕は辞表を胸に入れて会社に行ってました」って書いてありましたね(笑)。

田家:そうなんですか。長田暁二さんって本当に日本の音楽文化を書き残すって意味では、僕よりはるか先輩で尊敬してる方です。

三浦:本を500冊書いてますからね。

田家:今でも元気ですもんね。長田暁二さんは会社から持ち出したことを知らなかったんですか。

三浦:いや知っているんですよ。長田さんが今頃になってそんなことを僕に言ってくれるのもすごいなと思ってね。当時、辞表を胸に入れたなんて言われてないんです。だけど、「三浦くん俺は許可は出せないよ」とは言われて。そりゃそうですよ、何千万もする機材を持ち出して、雨でも降ったら、もう終わり。僕が持ち出したら会社のスタジオでは仕事できないですよね。でも、行くなよとは言わなかったんですよね。

田家:今ここに喪中あいさつのハガキがありまして、「令和3年11月録音機を持ち出すとき、私は懐に辞表を書いて…」書いてあります。持ち出すときってかなり決意が必要だったんですか。

三浦:いや、大した決意もしてないんですけど、とにかく録音したいという一心で。だけど僕には部下もいないじゃないですか。それでたまたま大学の近くにカレー屋さんがあって、早稲田高校の子どもたちがカレーを食べに来てたんです。その中から何人か運転できる人とか選んで、その中から斎藤くんっていう人がボロボロの車を持ってきてくれた。その斎藤くんは後にアカデミーのクラシックの録音賞取るんです。当時はまだ19歳だから浪人生だったのかもしれないけど。彼のボロボロの車で、アルバイトの子たちと運び込んだ。

田家:機材車のまま行ったのではないんですね。卓を会社から持ちだして。すごいな。

三浦:でもそれやってなかったら、はっぴいえんども渡さんも僕もいなかったわけですから。

田家:この1970年のライブ盤もないわけですからね。

三浦:今から思えばとんでもない良いことをしたなと思ってるんですけどね(笑)。

田家:会社にばれたらクビですからね(笑)。長田暁二さんすごいなぁ。中津川でこういうのがあるんだっていうのは?

三浦:僕の1年下に牧村憲一くんがいて、タクシーでどこか行くときに、ポロッと「中津川でこういうライブがあるよ」って言ってくれて。聞いたら僕の好きな人が全員出演する。「絶対行って俺が録音する」って言ったらもう録音決まってますよ、URCがやってますよって。でもそれを僕がやるから、お金も全部こっちが出すからって言ってやらせてもらったんですよ。

田家:URCはやるつもりだったんですか。

三浦:もちろんですよ。それで僕がレコーディングして。岡林さんとか赤い風船はビクターですからビクターで出そうと思ったんですよ。でもビクターの分も全部僕は録音するから、それで音源はビクター 、URC、ケンウッドとかいろいろなところに同じ音源使ってもらいました。

田家:分けてあげるよと。すごいなぁ。こういうのを歴史的な行為と言うんでしょうね。高田渡さんにあなたのレコードを出したいんですということで始まった次は、高田渡さんの1stアルバム、1971年6月に出たアルバム『ごあいさつ』の中の「しらみの旅」。

Rolling Stone Japan 編集部

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