記録的成功とバンドの分裂「マネー、こいつはヒットだ」とギルモアは歌っているが、実際に「マネー」はヒットを記録。それから8年間バンドがやってきたことはすべてが大成功を収めている。「マネー」はアメリカのチャートでトップ20ヒットとなり、『狂気』は全米チャートで741週連続ランクインを達成。彼らは北米のアリーナ・クラスの会場でライブを行う人気バンドとなった。
熱心な社会主義者であるウォーターズにとって、それは皮肉なことだった。彼の友人ニック・セジウィックによる長年刊行されなかった随想録『In The Pink (Not A Hunting Memoir)』でウォーターズはこんな発言をしている。「さあ、また新曲を書いて何千ポンドか儲けようか。ファンのみんなに乾杯! モーターボートでも買うことにするよ」
「その本で俺はあまりキラキラ輝いていないよ」ウォーターズ自身も自叙伝を出すことになっている。「でも、どうだっていいんだ。俺たちはみんなそういう人間なんだからな」この本では音楽面でのウォーターズの独裁に関する強い主張があり、そのせいで他のメンバー達が刊行を認めなかったという。
ピンク・フロイドは『狂気』に続くアルバムのための曲作りを1974年に開始しようと試みたが、バンドが始まって以来最悪の口論を始めることになる。「振り返ってみると『狂気』を出した後、そんなに急いでスタジオに入らなくても良かったと思うね。もう1年ぐらいツアーするべきだったんだ」とメイスンは振り返る。
1972年頃、ツアー中のピンク・フロイド(Photo by DAVID REDFERN/REDFERNS/GETTY)1979年に入ると、バンドはウォーターズの独裁体制下にあった。彼は個人的な問題を抱えていたライトを追い出している。『ザ・ウォール』(1979年)はウォーターズの産み落とした赤ちゃんだったし(但しギルモアも自分の音楽的貢献を誇りにしている)、殺伐とした『ファイナル・カット』(1983年)は実質的に彼のソロ・アルバムだった。
「みんながロジャーの言う通りにすれば、バンドは長続きしていたかも知れない」メイスンは語る。「あるいは彼がバンドから巣立つべき時期だったのかもね」
1985年、ウォーターズはピンク・フロイドを去る。そしてギルモアとメイスンが自分抜きでバンドを続けると知って、愕然とすることになった。
「ロジャーは1985年に脱退したんだ」ギルモアは語る。「俺は21歳のときにピンク・フロイドに加入して、30代後半になっていた。成人してからずっとこのバンド、このアーティスト集団で活動してきて、自分の愛する音楽をプレイしてきたんだ。それを突然止める理由があるかい? 止めたくなんかなかった。ロジャーがバンドを去ることになって、我々がどれだけのものを失ったか、その後我々が生み出すものが彼のいた頃の最上の作品と較べてどう評価されるかは、これからも論議の対象となるだろう。俺には判らない。いろいろな意見があるだろうけど、とにかく俺たちはバンドを存続させて、自分たちがやってきたことを続けて、かなりの成功を収めてきた。素晴らしい日々だったよ」
ギルモアの率いるピンク・フロイドは『鬱』(1987年)、『対(TSUI)』(1994年)という2枚のスタジオ・アルバムを発表したが、どちらもセールス面ではウォーターズのソロ・アルバムをはるかに上回っている。ウォーターズのアリーナ規模の会場でのライブが半分しか売れていない一方で、ピンク・フロイドが近所のスタジアム公演をソールドアウトにすることもあった。
「そういう対立構造を作ったのは彼なんだよ」ギルモアは主張する。「彼自身が屈辱を受けることになって、それで何かを学べたら良いと思う。彼はソロ活動でもかつてのピンク・フロイドの要素を取り入れている。それが彼なりのプライドなんだ」
1988年、『鬱』ツアーのライブ作品『光~PERFECT LIVE!』に収録された「虚空のスキャット」新生ピンク・フロイドは1994年に最後のツアーを終えて、華々しいファンファーレもなく、ギルモアはバンドの歴史に幕を下ろした(※編注:その後、2014年にラストアルバム『永遠(TOWA)』をリリース、2022年にウクライナ支援のシングル「Hey, Hey, Rise Up!」を発表)。
「ロジャーがいなくなったことで、俺が唯一のリーダーにならざるを得なかった」彼は語る。「それですべての重荷を1人で背負うことになったんだ。最初のアルバムは困難だったけど、学ぶことも多かった。でも「対」はさらに重労働だった。あのアルバムの後、責任を背負うのはトゥーマッチだったんだ。それで引退するか、ソロでやることを考えたんだ」