金原ひとみが語る、初めて10代の目線で「青春小説」を書いた理由

「対話にも限界があるという前提も忘れてはいけない」

─小学校時代の幼馴染みの男の子・駿とのやりとりも、本作のハイライトの一つです。自分がされて嬉しいことが、相手にとって嬉しいとは限らない。それどころか相手を傷つけてしまう可能性があることを、玲奈は俊を通して学んでいく。「人の考え方、価値観、生き方はそれぞれ違う。だから人が良かれと思ってしたことが相手を苦しめたり、傷つけたりするのはよくあることだよ。玲奈が思ってるよりも人と人とは違うし、人と人とは理解し合えない。まずはその前提に立たないとね」という母親の言葉も胸に刺さります。

金原:コロナの時期、みんなが緊迫していたときに「よかれ」と思ってやったことが、相手にとっては重荷だったりショックなことだったり、傷つく行為だったりというすれ違いが起こりました。価値観がほんのちょっと違うだけで、自分の行いが全く違う意図で伝わってしまうことは、当然今までもあったのですが、コロナ禍でかなり明確に可視化されたと思うんです。

飲食店が大変だということになっていても、身の回りにそういう困窮を極める当事者がいないとリアリティを持って実感することができない。そういう中で、中学生である玲奈が、自分の知らない世界で生きている人たちのことを、どんなシチュエーションだったら身近なものとしてとらえられるか。そう考えたときに思い浮かんだのがこのエピソードでした。

─家族や恋人のように、自分が近しいと思っている相手であっても「自分だったら、これをされたら嬉しい」と思ってしたことが、相手を深く傷つけてしまうこともある。結局は自分の基準でしか相手のことを想像できないじゃないですか。

金原:相手への想像力を持つ必要があること、そしてその想像力には限界があるということ、両方を思い知る必要があると思います。いずれにせよ対話が必要なんですが、「対話にも限界があるという前提も忘れてはいけない」と最近は思うことが増えました。

─コロナ禍で起きた分断や、ウクライナへのロシアの武力侵攻を見ていてもそれを強く感じます。「想像力の及ばない範囲がこの世界にはある」ということも受け入れなければならないというか。

金原:本当にそうですね。フランスに住んでいたとき、隣に住んでいる人の国籍やルーツ、なぜそこにいるのかとかも全く知らなくて。でもアパートの住人ではあるから会えば世間話くらいはするんですが、「結局のところ、何を考えているのかわからないよね」という前提はあって。向こうからしても、駐在ではなさそうだし、毎日家にいるっぽいけど何してる人なんだろう、と得体がしれない存在だったはずです。その浮遊した状態、私は相手のことを知らないし、相手にとっても私が何者であるか分からない状態は、一見恐ろしいことのようでもあるのですが、人種や性別、職業や宗教などでむやみに定義されないことが、意外に居心地の良いことなのだとも気付きました。

日本にいると、隣にいる人がどんな仕事をしているか、どんな暮らしぶりなのかがなんとなく分かってしまうところがあるじゃないですか。その「分かってしまう」ところに安住せず、本当はどんなルーツや事情を抱えているか分からない、どういう苦しみの中にいるのか分からない、と考え続けないといけないんだろうなと。

─玲奈の友人、ミナミの恋愛事情も小説後半の山場です。

金原:ミナミに関しては、少し特殊な体験をしてきた子を描きたいなというのがまずありました。フランスに住んでいたとき、日本ではあまり出会わないような環境にいる子どもたちをたくさん見てきたんですね。例えばステップファミリー(離婚・再婚によって血縁関係のない親子関係が1組以上含まれる家族関係)や養子のような、色々な家族形態を目の当たりにしたことが、自分の中では大きな体験でした。玲奈の母親が公然不倫をしていることもそうなのですが、とにかく家族にはいろいろな形があり、だからと言って荒れたりするわけでもなく普通に毎日をまっすぐ生きている、そういう様子をフラットに描きたかったんです。

この本の最終章は「世界に散りゆく無法者ども」というタイトルです。玲奈は相変わらず学校と友達と家族が生活の大半を占めているけど、周りのみんながちょっとずつ変化していく。例えば、コンビニで働く中国人のイーイーは帰国してしまうし、ヨリヨリはバイトを始めて働くことに魅力を感じ始めたり、みんなが新しい自分や新しい社会を見つけていく章です。この章ではミナミの新しい恋人の話を書いて、恋愛関係を通じて新しい感情を覚えていく彼女の姿を描きたいなと思いました。

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