50年前の未解決事件、音楽フェス目指しヒッチハイクの旅に出た高校生は今どこへ? 米

同じころ、1日限りのコンサートは前売りの段階ですでに約15万枚のチケットが売れていた。だがコンサートのプロデューサー、スカイラー郡の警察当局とソーシャルサービスの職員は、コンサート当日の2日以上も前から面食らっていた。ニューヨーク州フィンガーレイクス地方にひっそり佇む人口2700人の小さな村に、20万人近いファンがすでに押し寄せていたのだ。予想以上の人出で道路も閉鎖された――4年前のウッドストックとまるで同じ状態だった。

「金曜の時点で、大変なことになったと思いました」と、コンサートのプロデューサーの1人ジミー・コプリック氏は当時を振り返る。「サウンドチェックをした段階ですでに15万人で、仕切りの一部がなくなっていました」。結局プロデューサーは仕切りをすべて取り除き、コンサートは無料イベントと化した。

ウッドストックでは音楽史に燦然と輝く演奏がいくつも飛び出し、2枚組のライブアルバムはベストセラー、コンサートの模様を収めた映画も賞を受賞したが、サマージャムのほうはあまり知られていない。だが「最多観客動員を記録したポップフェスティバル」としてギネス世界記録にも載っている(アメリカ国民の350人に1人が参加していたと指摘する歴史家もいる)。

だが規模の割には、サマージャムでは暴力事件は一件も報告されなかった。「全体的に平和なコンサートでした」と、ニューヨーク州警察も語った。「逮捕件数は重罪が13件、軽罪が71件、車両や交通関連が49件(そのうち飲酒運転は14件)でした」。

コプリック氏だけでなく共同プロデューサーのシェリー・フィンケル氏も、ローリングストーン誌から連絡を受けるまでミッチェルさんとボニーさんの失踪を知らなかった。これもまた、サリバン郡保安官事務所がコンサート関係者全員に周知しなかったことを物語っている。

「どんな悲劇にも結末は必要です」とコプリック氏は言う。


オールマン・ブラザーズ・バンド、グレイトフル・デッド、ザ・バンドが出演したワトキンズ・グレンのサマージャム(RICHARD CORKERY/NY DAILY NEWS/GETTY IMAGES)

コンサート終了から1日半が経過した7月30日月曜、ウェルメット・キャンプ場はボニーさんがまだ戻っていないと母親レイさんに連絡した。

日曜にミッチェルさんが戻らなかったため、母親のシャーリーさんはカルテンさんに居場所を知らないかと尋ねた。翌日ミッチェルさんの父親シドニーさんが、姉のスーザンさんと車で5時間かけてブルックリンからワトキンズ・グレンに向かった。「郡警察と会いましたが、警察は家出だとみなしました」とスーザンさん。「私たちはミッチェルとボニーの写真を警察に渡しました。それからワトキンズ・グレン峡谷に行き、2人がケガをしてまだそこにいるかもしれないと、2人の名前を叫びました」。

サリバン郡、スカイラー郡、ニューヨーク市いずれの警察からも相手にされず、慌てた家族は急いで計画を練った。ボニーさんの母親レイさんはサリバン郡庁所在地のモンティセロまで出向き、保安官事務所に助けを求めた。「警察からは一蹴されました」と、1998年のインタビューでレイさんは語っている。ボニーさんとミッチェルさんが最後に目撃されたのがサリバン郡だったため、サリバン郡保安官事務所が捜査の陣頭指揮を執ることになった。2人はニューヨーク市民だったのでNYPDも捜査協力をすることになっていたが、当時のNYPD職員も語っているように、支援協力はなかった。

2人の家族は自分たちで対処することにした。数千枚のチラシをサリバン郡とスカイラー郡で配布した。地域のアングラ新聞に広告を出し、2人がこれを見たら家族に連絡するよう呼びかけた。私立探偵も雇った。ヒッピーが集まるコミューンやアメリカ原住民居留地やカルト宗教に問い合わせたり、訪問したりした。ハレー・クリシュナという宗派や、「ムーニーズ」と呼ばれていた統一教会にも連絡した。ミッチェルさんの姉ウィーザー・リーブゴットさんは、身元を隠してカルト宗教に接近し、情報収集を図った。「チルドレン・オブ・ゴッドというカルトに潜入して、何か知っていないか探りました」とローリングストーン誌に語った。「何も収穫はなく、すぐに退団しました」。

地元メディアが徹底した報道を行ったにもかかわらず、努力は実を結ばず、家族は取り合ってくれない警察当局の態度の理解に苦しんだ。警察の助けがないまま、「どうするのが正解か、まったくわかりませんでした」とケイゲンさんは言う。

専門家の話では、警察当局が行方不明者の捜索に手を貸さないのは珍しいことではないという。「簡単な問いに答えてほしいだけなのに、壁にぶちあたる――大勢の人たちが同じ目に遭っています」と、行方不明者をテーマにしたpodcastの司会者ジョーンズ氏は言う。

1984年に連邦政府の財政支援で、地元警察と家族を支援する非営利組織「全米失踪・被搾取児童センター」が設立された。毎年3万人の子どもの失踪届けが出されているそうだ。2007年には司法省の下に全米行方不明者・身元不明者システム(NamUs)が設立された。推定によると、毎年4400体の身元不明の死体が回収され、身元が分からない人は1万4461人、引き取り手のない人は1万5796人にも上るという。

だが1973年当時、ミッチェルさんとボニーさんの家族には頼る先がなかった。警察の助けもなく、民間の支援団体もなく、やがて家族の資金や手段は底をついた。ボニーさんの母親レイさんは藁にもすがる思いで霊能者に助けを求めた(そのうち1人は、2人が採石場に横たわってる姿が「視える」とレイさんに告げた)。

やがてミッチェルさんとボニーさんの捜索は縮小し、傷心の友人と家族は前に進もうとした。事件が世間やメディアから姿を消すのも、当然の流れだった。

1984年、ミッチェルさんの両親は父親が肺炎にかかったため、アリゾナに移住した。だが夫妻はニューヨーク州の電話会社に毎月2ドル39セントを払い、ブルックリンの電話帳に自分たちの名前とアリゾナの新居の電話番号を掲載し続けた――息子がいつか帰ってくるときに備えて。

Akiko Kato

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