加藤登紀子が語る、訳詞で表現してきたシャンソンの奥深さ

愛の讃歌 / エディット・ピアフ

田家:加藤さんに曲を選んでいただいたのですが2曲目「愛の讃歌」、エディット・ピアフ。これは加藤さんにとってどういう曲ですか?

加藤:エディット・ピアフのお墓へ1989年にふらっと遊びに行ったんですよ。1988年にカーネギーホールでライブをしたんですけど、そのときにニューヨーク・タイムズの人がシャントゥーズ登紀子っていう見出しで記事を書いてくれて。登紀子は日本から来ているけど、典型的なシャントゥーズの声だと。私を全部知っている人が記事を書いてくれたような気がして、それでパリに行ってみようと思って1989年の1月に遊びに行ったの。そのときに飛行機の中で観光案内を見ていたら、エディット・ピアフのお墓があるペール・ラシェーズ(Père-Lachaise)にパリ・コミューンの人が立て籠もって殺された壁があると書いてあったのでびっくりして。エディット・ピアフとパリ・コミューンが繋がった。それで私はピアフのお墓を訪ねたわけですよ。今はすごく立派な石碑が立っちゃってるけど、その頃はまだペール・ラシェーズに立て籠もった人がここで惨殺された血の跡が残っている塀があって。そこからふと振り向くと、ピアフのお墓がある。すごく近いんです。それからピアフに夢中になった。岩谷さんが越路吹雪さんの歌う歌詞を作られて日本で歌われてきているけれど、パリでお墓にお参りしたときにエディット・ピアフの真髄として「愛の讃歌」を歌ってみたいと思うようになって、詞をつけたんですね。詞をつけた最初のきっかけは横浜のコンサートだった。登紀子さん、なんであなたは「愛の讃歌」を歌わないのかって客席が言ったわけよ。そのときに私が歌うとしたらって「もしも空が裂けて 大地が崩れ落ちても」とか、そういう歌詞で歌うんだったら歌ってみたいと思ってるの!って。

田家:あ、おっしゃったんだ。

加藤:とっさに作ったのがこの詞の出発点だった。作ったら急に全部仕上げたくなったんですけども、今度は私の夫が他界したんです。2番の私の歌詞が「もしもあなたが死んで 私を捨てるときも」なんです。ものすごく考えて歌わないと大変なことだと思った。そしたら急にまた歌えなくなっちゃって。途方に暮れていたときに、2005年に40周年が来ようとしたわけ。夫が逝ってしまったために「愛の讃歌」を歌わないでどうするの?という気持ちになって、思い切って歌ったんですよ。そのときにハッと気づいたのはエディット・ピアフがこの詞をこの曲を歌ったのが、恋人のマルセル・セルダンが死んだ翌年だったんです。マルセル・セルダンを失ったけれども心はあなたと無限に一緒にいることができるという喜びをこの歌に込めたかもしれないと思って歌ったら、パーッと空が晴れたように救われて。私は夫が他界した後に何を歌ったらいいのか結構モヤモヤした時期があったんですけど、奮起する意味でこれを私は歌いたいと思って、2005年に40周年のコンサートのメインプログラムを「愛の讃歌」にして作ったんですね。それで私は、あなたと永遠に一緒にいることができるという決意のもとにこの曲を歌えると思って、島健さんにお願いをして『シャントゥーズTOKIKO ~仏蘭西情歌~』っていうアルバムを作ることにしたわけ。

愛の讃歌 / 加藤登紀子

加藤:ダミアは私大好きだったので、ダミアを歌うピアフから幕を開けるみたいな。その前にマレーネ・ディートリヒがピアフを紹介する私なりの物語を作って。ピアフが歌手として生まれて、さんざんいろいろな経験をして死んで、死後のピアフまで含めてストーリーを作った。それがピアフが100歳の年。そのときもうちょっとレコーディングしたときとは気持ちが深まりましたね。ピアフの人生を一緒に生きた気持ちになってから歌ったヴァージョンも後にレコーディングしているんですけど。私の中でピアフとの関係は生き続けている。

ナントに雨が降る / バルバラ

田家:加藤さんが選ばれた3曲目、バルバラで「ナントに雨が降る」。

加藤:実はコンクールに受かった1965年はバルバラがフランスのディスク大賞みたいなのをとった年。夢中になって聴いて、いち早くこの曲に自分の詞をつけて。1971年に初めてのシャンソンアルバムを出したときもレコーディングしているんですけど、その後ウィーンでレコーディングした。なんでウィーンだったかと言ったら、私がシャンソンと思っているものはパリに吹き溜まったヨーロッパの嵐なんですよね。バルバラはポーランド系のユダヤ人。アズナブールもアルメニア人。モンタンはイタリア人、ムスタキはギリシャ人。そう思ってくると、パリのど真ん中は実はシャンソンの空洞で、本当は周辺、ヨーロッパの吹き溜まりがシャンソンだと。

田家:いろいろなところから逃げてきた人たち。ファシズムがあったりナチスがあったりという中で、自由を求めて逃げてきた人たちがパリに集まっていた。

加藤:それこそ第一次世界大戦のときにオーストリア・ハンガリー帝国みたいなのがあって、クラシックのメッカだったウィーンでレコーディングしたの。

田家:1971年に作られたアルバム『美しき5月のパリ』で歌われた曲が1998年のアルバム『vol.7 TOKIKO L'AMOUR II』に入っております。その中からお聴きいただきます。

Rolling Stone Japan 編集部

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