スウィング・アウト・シスター物語 ふたりが語るルーツと名曲秘話、日本との特別な関係

スウィング・アウト・シスター

スウィング・アウト・シスター(Swing Out Sister:以下、SOS)ほど、聴く人のタイプによってイメージが異なるグループも珍しい。80年代にUKチャートの最新ヒット曲を追っていた筆者にとって、彼らは “元ア・サートゥン・レイシオのキーボード奏者と元マガジンのドラマーが組み、ワーキング・ウィークのライブで歌っていた女性シンガーを迎えたグループ” であり、ポストパンクのジャンル混交の流れから出てきたユニットとして聴いていた。

1986年にリリースされて全英4位まで上昇した2枚目のシングル「Breakout」が、翌年に世界規模のビッグヒット(全米6位)になってからは、彼らの出自はあまり触れられなくなり、スタイリッシュなポップアイコンとして俄然人気を集めていく。待望の1stアルバム『It's Better To Travel』(87年)は打ち込みを併用したエレクトロ・ポップを主体としながら、ジャズ、ラテンなどの風味もまぶした折衷性の高さが今聴いても新鮮。同作は全英アルバム・チャートでNo.1を獲得、アメリカや日本でも好セールスを記録した。

しかしドラマーのマーティン・ジャクソンが脱退、コリーン・ドリューリー(Vo)とアンディ・コーネル(Key)のデュオに移行した2ndアルバム『Kaleidoscope World』(89年)以降の作品や、日本のTVドラマ用に書き下ろした大ヒット曲「Now You're Not Here」(96年)でSOSと出会った人たちは、バート・バカラックやジミー・ウェッブなどの影響下にあるオーケストラル・ポップ/ソフト・ロック的な作風を真っ先に思い浮かべるはず。また、日本のラジオで頻繁にエアプレイされた「Am I The Same Girl」や「La La (Means I Love You)」など、ソウル古典のカバーがきっかけでSOSのファンになった、という層も少なくないだろう。

久保田利伸や荒井由実のトリビュート・アルバムに参加したり、花澤香菜に楽曲を提供したり、コリーンが野宮真貴のアルバムに客演したりと、日本のミュージシャンとも接点の多いSOS。2020年4月にはコロナ禍の影響で来日公演が中止になるという憂き目にあったが、今年4月に久々の来日が決定。東京・横浜・大阪のビルボードライブを回る。

約40年にわたって多面体的な魅力を保ちながら、独自のポップ哲学を堅持し続けてきたSOS。今回は改めてふたりのルーツを深掘りすると共に、代表曲にまつわるエピソードや、気になる新作のプランまでたっぷり語ってもらった。


2010年の来日公演、ビルボードライブ東京にて

─最初におふたりのルーツから聞かせてください。アンディは子供の頃からクラシック・ピアノのトレーニングを積んできたそうですね。

アンディ:随分すごいことをやってきたように聞こえるね(笑)。イギリスでは土曜の朝にピアノのレッスンがあると「クラシック・ピアノのトレーニング」という言い方をするんだ。実際はそんなに本格的じゃなかったけど、体系的なレッスンではあったね。クラシックの曲もたくさんやったし、音楽を始めるにはいい方法だったんじゃないかな。構造を学ぶことができるし、ちゃんとした楽器の「言語」がわかるようになるから。それを学んでから、どのルールを破りたいかを決めることができるんだ。だから僕としてはとてもいい学びを得たと思っている。今でもクラシックの曲から学んだコードで、よく好んで使っているものがあるよ。どれかは教えない(笑)。

─ポップ・ミュージックとはどのように出会ったのでしょうか?

アンディ:クラシックが生活にあったことはなかったね。どちらかというと押し付けられた感じで、親のためにやっていたんだ。自分の時間があったときはいつもポップ・ミュージックを聴いていたよ。と言ってもそんなに長くはなかったかな……ウェザー・リポートを聴きに行ったときも、まだ学校にいたしね。あれはジャズ&フュージョンのバンドだけど、僕は確かまだ16歳だった。何が何だかわからなかったけど、とにかく興奮したよ。「これはいったい何だ?!」みたいな感じでね(笑)。言うまでもなくとても洗練された音楽だけど、僕にはあまり理解できなかった。でも、理解したいとは思ったね。


1987年撮影(Photo by Vinnie Zuffante/Getty Images)

─コリーンはご両親ともにミュージシャンだったそうですね。そういう環境にいると影響もいろいろ受けたと思うのですが、あなた自身はどんな曲を好んで聴きながら育ったんでしょう?

コリーン:そうね……色んな音楽に触れてきたけど、身の周りにあっただけで、自分のお気に入りが何かはよくわかっていなかった。憶えているのはビートルズ、ローリング・ストーンズ、ペトゥラ・クラーク、ダスティ・スプリングフィールド……それから一連のモータウン・シーンから色々。それにリトル・リチャードも……何でも聴いたわ。ラジオの時代だったからね。私の音楽的な形成期は60年代で、みんなずっとラジオをつけっぱなしだったの。だから特に何かを選んで聴いていた訳ではないけど、私が惹かれたのは女性シンガーたちだった。ダスティ・スプリングフィールドをテレビで見た時は「わたしもこの人みたいになりたい!」と思ったものよ。サンディ・ショウやディオンヌ・ワーウィックも。

─ふたりは10代前半でデヴィッド・ボウイとグラム・ロック、そしてハイティーンの頃パンク・ロックに直撃した幸福な世代ですよね。音楽とファッションが密接なそれらのカルチャーは、かなりインパクトのある体験だったのでは?

コリーン:そうね。今思えば、私のセンスを本格的に呼び覚ましてくれたのはデヴィッド・ボウイだった気がするわ。「Life On Mars?」のシングルを思い出すわね。レコード・プレイヤーのボタンを何度も押して、グルーヴに飽きるまでくり返し聴いていたのよ。彼のいでたちにも魅了されたわね。と言ってもビデオがなかったから、頭の中でイメージを思い描いていたの。ただ歌詞に耳を傾けて曲の中に入り込むだけで、色んな光景が浮かんで、自分のイマジネーションのポケットを開けてくれる感じ。「なんて面白いんだろう」と思ったわ。音楽だけじゃなくて、色んな側面があるのよ。音楽を作っている本人がカメレオンみたいにどんどんスタイルを変えていって、自分の音楽の様々な時代に寄り添っているんだもの。ああいう歌詞の書き方は私にも魅力的に映ったわ。意識の流れが音楽にすごく合っていたから、その歌詞を自分が感じるままに解釈することができたのよ。

─アンディは地元のマンチェスターのクラブ、ハシエンダに通ってポストパンクのバンドに関わっていたわけですが。当時のマンチェスターではクラブカルチャーがカジュアルで、キッズにも入り込みやすいものだったのでしょうか? 後から映画で見たハシエンダは結構危険な場所のように見えますが。

アンディ:ハシエンダに通い始めた頃は「キッズ」よりもう少し歳がいっていたよ。もう学校を出ていたし。若い頃は何もかもが目新しいから「よし、トライしてみよう」と思うものだよね。で、特定のものに没頭することがあると、それとはまったく違うもの、あるいはそれらのミクスチャーに惹かれることがあるんだ。「あれ、これって何だろう? 馴染みがないぞ。解明してみよう」と思うからね。当時僕がやっていたバンドは間違いなくそういう流れからやっていた。すごく楽しかったよ。わざわざ選んでそういう経験をした訳では必ずしもないけど、今にしてみればとてもいい経験だった。何が起こっているかについて、それまでとは違う角度からの理解が必要だったからね(笑)。ハシエンダ時代は、振り返ってみると確かにあのシーンはちょっと危険だったような気がする。美化するつもりはないけど、そこには特有のアドレナリンがあった。バランスさえ良ければクリエイティブな場所になる。当時のハシエンダは間違いなく、とてもクリエイティブな場所だったよ。

─一方、コリーンはファッションの世界に進んで、自分のクロージングラインを運営したり、モデルもやっていたそうですね。歌手になるより前にモデルとして日本に来たこともあるとか。

コリーン:歌うことには昔から興味があったのよ。小さい頃からシンガーかファッションデザイナーになりたかった。ダイアナ・ロスが主演した『Mahogany(マホガニー物語)』という映画を観て、「この人両方できるのね!」と気づいたのを憶えているわ(笑)。カレッジでファッションデザインを専攻していた頃、バンドをやっていたのよね。ちなみに同窓生がシャーデー(にっこり)。私たち、間違いなく同じものを目指していたわね(笑)。同じ学年だったけど、ふたりともファッションデザインに進まずにシンガーになったから。

昔から日本のファッション・シーンには興味があったのよ。日本のファッションがイギリスに上陸したときはワクワクしたわ。山本耀司、川久保玲、三宅一生……「Wow!」と思った。まったく新しいクロージングで、伝統的な日本の感性をイギリスのストリート・スタイルとミックスして、クールだったわ。私はYOHJI YAMAMOTOのイギリス1号店でサタデー・ガール(土曜日だけの仕事)をしていたことがあってね。買うお金はなかったけど、服に触れてみたかったのよ。(笑)日本のものなら何でも夢中だったわ。私はプロのモデルだったことはないけど、初めて日本に行ったのはMEN'S BIGIのモデルの仕事だったの。

さっきハシエンダが危険だったという話が出てきたけど(笑)、東京にいた時のある晩、クラブに行ったのよ。古いインダストリアルな建物の中にあってね。そこをウェアハウス・パーティの会場みたいに作り直してあった。ところが、そこに警察の強制捜査が入ったのよ! すると、会場が途端にレストランに早変わりしてね。急にたくさんテーブルが並べられて、ウェイターが食事を持ってきて……お手洗いか何かに行っている間に、そんなことになっていて(笑)。私たちは「ディナーを食べているだけです」みたいな顔をして振る舞わないといけなかったわ。日本だってイギリスと同じくらいクレイジーだったのよ! 日本で一番好きなのは新宿。『ブレードランナー』の世界を地で行っている感じだったから。再開発される前の話だけどね。駅の周りにラーメン屋がたくさんあって、古い時代の東京がまだ残っているような感じがしたわ。

─ファッションの世界にいたあなたがワーキング・ウィークで歌うことになったのは、どんないきさつで?

コリーン:NMEに広告が出ていたから、オーディションに出たのよ。あまり長い間は一緒にやらなかったけどね。

アンディ:1週間くらいじゃないか? ごく短期間だったよ(笑)。

コリーン:そうね。でも、いい訓練になったわ。初めてのギグでは、本当に自分がバンドに入りたいのか見極めるためにお客さんとして行ったつもりだったんだけど、「今夜歌う気ある?」なんてハシエンダに向かう途中で訊かれてね。で、そのとき客席にいたのがアンディだったのよ!

アンディ:そうなんだよ、コリーンは気づいていなかったけど。オーディションみたいな感じでね。ギグを観て「あの娘はうまいな」と思ったんだけど、彼女があっちをクビになったから、「なるほど。じゃあ誘ったらうまくいきそうだな」と思った。ハッピーなアクシデントだったよ。

─一方、アンディはア・サートゥン・レイシオやカリマで活動していたし、クアンド・クアンゴのアルバムでも演奏していましたね。80年代前半は様々なジャンルがミックスされていた面白い時期でしたが、あなたにとってはどんな収穫がありましたか?

アンディ:たくさんのものに没頭していると、それぞれが影響し合うと思うんだよね。だけど今は多くの人、そして僕たちも間違ったことをやっているというか……1つのプロジェクトしかやらない。当時は日によって違うプロジェクトに関わっていたし、時には同じ日のうちに別のバンドと別のリハーサルやアルバムのミキシングがあったりして、様々な影響がミックスされてエネルギーが生まれていた。様々なメソッドも段々他への適用性が上がってきてね。だから同じことの繰り返しにならなかったけど、歳を重ねるにつれて一定の軌道に乗るようになると、「これが自分の生業だ」ということになる。あの時代が恋しい気はするね。毎日何が起こるかわからない、どんな状況に置かれることになるかわからない、ああいう状態を再現するのは難しいことだから。そんな中で創作活動をするのはとても楽しかったよ。


アンディが参加していた頃のア・サートゥン・レイシオ、「Bootsy」にはコリーンも客演(1986年)

Translated by Sachiko Yasue

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