笠置シヅ子&服部良一特集、刑部芳則が語る戦前のブギ、「東京ブギウギ」



刑部:これは笠置さんのデビュー曲なんですよね。

田家:笠置シヅ子になる前ってことですね。

刑部:そうですね。最初は三笠静子と言っていたんですけど、ちょうど昭和10年、皇族の三笠宮というのが創設されて。同じ名前に被っているというのは失礼に当たるんじゃないかというふうに思いまして、それで三笠から笠置という形に変えるんですよね。

田家:作詞が高橋掬太郎さんで作曲が服部ヘンリーさん。高橋さんは「雨に咲く花」、井上ひろしさん。「ここに幸あり」大津美子さん、ああいう曲を書いている人。

刑部:そうですね。三橋美智也さんの「古城」とかですね。

田家:まーつかーぜーさーわーぐー♪ね(笑)。服部ヘンリーさんというのはどなたなんですか?

刑部:昔はこれが服部良一じゃないかと言われてもいたんですけど、実は調べてみると服部逸郎という方なんです。一般的にはレイモンド服部という名前で有名になっていますね。「ヤットン節」とか作曲した人なんですけど、その人の変名だったんです。

田家:それはどうやって調べたんですか?

刑部:CDを今回作成するにあたって、コロムビアの方の史料でわかったんですよ。

田家:さすが大学教授であります。再び「恋のステップ」が流れておりますが、昭和9年、1934年、おもしろい年だったんですね。

刑部:そうですね。ちょうど経済的に見ると昭和恐慌というのがあって、慢性的に経済が悪かったんです。徐々にそれが回復してきて、景気がよくなってきた感じの頃なんですね。

田家:宝塚が開場したとか、渋谷のハチ公の銅像が建立されたとか、満鉄の特急あじあ、流線形の特急が走った。大阪駅が高架になったのがこの年だったとか。全米選別でベイ・ブルースが来たとか、ボニーとクライド、映画「俺たちに明日はない」になった2人が射殺された年だった。

刑部:いろいろなことがあった年ですよね。

田家:そういう時代の「恋のステップ」。洒落たタイトルですね。

刑部:洒落たタイトルですよ。これ当時歌の世界でいくと、笠置さんとは対照的で直立不動で歌っていた東海林太郎さんの「赤城の子守唄」なんかが大ヒットしてた頃に発売された曲ですからね。もう対照的ですよね。

田家:笠置さんは1914年、大正3年生まれでこのときは20歳だったことになるのかな。笠置さんは宝塚に落ちて、松竹歌劇団に入っている?

刑部:そうです。試験はよかったみたいなんですけどね、身長が少し足りない、小柄な方だったので。それで落ちてしまって、松竹の方に入るって形になったみたいですね。

田家:先生が笠置シヅ子さんに興味を持たれたのは何がきっかけだったんですか?

刑部:私はギリギリ間に合った世代なんですよ。笠置さんと言うと、歌を歌っているというよりはクレンザーの宣伝に出ているおばさんっていう感じなんですよね。

田家:大阪のおばちゃん。

刑部:それが、こういう古い昭和の流行歌とかに興味を持って、いろいろ聴くようになったときに笠置さんの歌っている歌唱映像とか古いものを見てびっくりしたんですよね。基本的には直立不動みたいに歌っていたような人たちが多い時代に、舞台ところ狭しと動き回って、これだけパワフルに歌う歌手がいたんだということに驚きで、興味を持ちましたね。

田家:昭和歌謡史に入っていくきっかけは他にもあるんですか?

刑部:最初はやっぱり古賀政男さんと古関裕而さんの作品を聴きまして。映像だとさっき言った東海林太郎さんをテレビで観て、もうすごいインパクトだったんです。こんな歌手がいたんだと、いつでも燕尾服で全く動かないみたいな。私の子どもの頃はピンク・レディーとかキャンディーズとかがだったんですけど、逆にこんな人がいたっていう。

田家:ね、生まれた年はピンク・レディーの絶頂ですもんね。

刑部:そんなとき、子どものときに観て逆にインパクトがすごかったんですね。全く動かないんだみたいなね(笑)。

田家:なるほど、そうやっていろいろなことが繰り返されたり継承されていくんだなという代表的な方が今月のゲストでありますが。笠置シヅ子さんという名前になったのが1935年で刑部さんが選ばれた今日の2曲目です。「ラッパと娘」。

Rolling Stone Japan 編集部

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